【新発見】信長 家康の戦略拠点 小牧山城の発掘調査進む

投稿者: | 2017年12月12日

小牧山城の発掘調査で本丸西側の斜面に「虎口」の跡とみられる新たな石垣が発見されました。以前は、信長の美濃攻めの戦略拠点として、短期間の利用を前提とした簡易な城と考えられていましたが、近年の発掘調査でその全貌が明らかになるにつれ、その後の岐阜城や安土城の基礎とも言うべき当時最先端の石垣構造を用いた本格的な城であったことがわかってきました。

小牧山城は、信長時代と小牧長久手の戦いの陣城として大きく2度重要な戦略拠点となりました。その間は約17年間。遺構がどちらの時代のものであるかを判断するのは悩ましいところですが、小牧市の発掘調査では石垣は信長時代のものと考えられるとの見立てとなっています。(最終更新2017年12月12日)

新たな石垣発見

小牧山城跡の発掘調査を進めている愛知県小牧市教育委員会は、本丸西側の斜面で新しい石垣の遺構を発見したと発表した。本丸に通じる出入り口「虎口(こぐち)」の跡とみられ、織田信長が築いた初の石積みの城とされる小牧山城の特徴を示す遺構となる。

出典: headlines.yahoo.co.jp

小牧山城跡 空撮

織田信長と小牧山城

永禄6年(1563)信長は清須から小牧山城に拠点を移します。清洲城は文明10年(1478)に尾張の守護所となって以来尾張国の中心として栄えてきました。美濃の斎藤氏攻略のためにより美濃に近い地へ、これだけでも他の戦国大名とは一線を画す信長の柔軟な発想が感じられます。武田信玄は古府中を、上杉謙信は春日山を生涯拠点とし、遥かに遠くまで遠征を重ねました。武田氏は、勝頼の代の駿河遠江三河を巡っての徳川氏との争いには拠点が離れ過ぎていた感もあります。それぞれ拠点を中心にして領土の広がりがあったこともありますが、先祖伝来の地からの移転はどうしても難しかったのでしょう。

信長は、わずかに10キロであっても戦いに優位な場所への移転を決めています。この移転には当然反対の意見が続出??と思われますが、「信長公記」により次のような話が伝わります。

清須は尾張国の真ん中でとても栄えていました。初めに信長はもっと山深い二の宮山への築城を家臣一同に命じます。ここにはあいつの屋敷を、そしてあちらにはあの者の屋敷をと信長の指示はかなり具体的です。そしてまた違う日にも再び同様に命じます。「清須からこんなにも山深い地への移転なんて・・・」と皆迷惑がりました。そうすると今度は、「小牧山に移転することにした」と信長は言い出します。小牧山へは麓まで川続きであり、移転にも便利な地です。皆喜んで移転しました。最初から小牧山と言っていたら二の宮山と同じように迷惑がっていたでしょう。(信長公記より)

この小牧山城に信長もきっと4年間しか使わないとは思わなかったはずです。城も城下もきちんと整備されていたことがわかる遺構が見つかっています。予想外に美濃攻略が順調に行き、戦略拠点としての重要性の薄れた小牧山から岐阜城への再移転となり、小牧山城は使用されなくなりました。

徳川家康と小牧山城

豊臣秀吉との一戦「小牧・長久手の戦い」で小牧山は再び重要戦略拠点となります。天正12年(1584)3月18日に家康は小牧山を占拠し、突貫工事で陣城としての整備に取り掛かります。3月27日には秀吉がすぐ近くの犬山城に入っていますので、時間は殆どありませんでした。その後、6月ごろまで家康の本陣として使われますので、滞陣中もかなり手が入ったことと考えられますが、現在発掘が進む石垣などを整備する時間は少なく、これらの石垣は織田時代のものと考えるのが妥当となるようです。

併せて、発掘された石垣が小牧山城北東の岩崎山から運んだと思われる花崗岩が使用されていることが判明し、岩崎山が小牧長久手の戦い当時秀吉の砦となっていたことからも敵陣から石を運んだとは考え難く、織田時代のものの証ともされています。

その後、小牧山城は廃城となりますが、江戸期には家康勝利の城として尾張徳川家管理の下で大切にされたそうです。

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小牧山城発掘調査の詳細

小牧山城発掘調査の詳細は、小牧市教育委員会の主郭地区の発掘調査がとてもわかりやすいです。

発掘調査により小牧山城のさらに様々なことがわかることに期待します!