歴史の散歩道「大江戸今昔めぐり」とともに渋谷を歩く 前編

投稿者: | 2018年1月7日

今回の「歴史の散歩道」は、2017年12月19日にリリース(ダウンドード開始)されたアプリ「大江戸今昔めぐり」とともに渋谷駅から金王八幡宮~薩摩藩(島津家)邸跡~淀藩(稲葉家)跡の順に江戸の匂いを求めて歩きます。

スポンサーリンク

大江戸今昔めぐり

まずはアプリの概要を簡単にご紹介します。これまでも書籍では、江戸時代の地図と現代の地図を重ねて紹介するものがありました。このアプリはそれが究極に進化したものと考えていいと思います。驚いたのは、江戸時代の地図と現代の地図とがほとんどずれることなく表示されること、「現代地図と正確に重なる地図データとなっています(大江戸今昔めぐり)」というのが最大の特徴なのです。

ベースとしているのは、江戸末期の古地図(切絵図)なのですが、それをそのまま用いても現代の地図とピッタリというわけには行きません。そこでこのアプリ仕様で江戸古地図を「完全描き起こし」スマホ上で現代地図と古地図を重ね合わせることを可能としているのです。

詳細及びダウンロードは、「大江戸今昔めぐり」から

金王八幡宮

大江戸今昔めぐり 金王八幡宮

まず渋谷駅から程近くの金王八幡宮を訪ねます。渋谷駅(渋谷警察署に近い出口)からは10分弱くらいで到着しました。大江戸今昔めぐりで確認すると、江戸切絵図でもしっかりと金王八幡宮門前にいることがわかります。これはやはり優れものと嬉しくなります。道に迷わずにしっかりと江戸の名所に到着です。

金王八幡宮は、平安時代後期から戦国時代初期まで渋谷城があった地にあります。八幡宮は寛治6年(1092)に勧請されています。

この地の領主渋谷氏が八幡宮を中心に館を構えて居城とし400年以上治めていましたが、後北条氏(北条氏綱)の侵攻により落城し渋谷氏は滅亡しました。それでも渋谷という地名として家名は生きています。

社殿の左には、渋谷城の石とされる巨石が今に伝わっています。

渋谷城の石

 金王丸と頼朝、義経

この渋谷氏で有名なのが、渋谷金王丸です。源頼朝の父義朝の忠臣であったと伝わり、義朝が平治の乱の後に討たれた際には、常盤御前にその悲報を伝えたとされています。金王丸は義朝が討たれたのちに、剃髪し土佐坊昌俊と称して義朝を弔いました。

頼朝の挙兵にも従い金王丸は頼朝の信頼を得ます。しかし平家滅亡の後に頼朝は弟義経に謀反の疑いをかけ、金王丸(昌俊)に京へ向かい義経を撃つように命じるのです。

金王丸

義経の母常盤御前に義朝の訃報を伝えた金王丸であれば、義経も油断すると考えたのでしょうか?かつての主君義朝の子らの争いに巻き込まれた金王丸の心中はいかばかりか想像すると悲しくなります。

金王丸は、義経の館を襲いますが返り討ちにあい捕らえられます。平家物語ではその最期をこう記しています。義経が涙を流しながら「主の命を重んじて自らの命を軽んずる志は神妙。命が惜しければ鎌倉に返すがどうか?」と告げます。金王丸は、居住まいを正し畏まって答えます「頼朝殿から義経殿を討てと命ぜられてから命は頼朝殿に捧げました。捧げた命をどうして取り戻せましょう。情けをおかけになるのであれば早く首をはねてください」、金王丸を褒めない人はいなかったそうです。

義経の涙も、父義朝や母常盤への忠義、兄頼朝が本当に自分を討つことを考えていることがわかったこと、そしてその討手が金王丸であったことなど、様々な悲しみが入混ざった涙だったのでしょう。

金王桜

社殿の右には「金王桜」という桜があります。この桜は江戸三名桜と呼ばれるほどの桜で、「江戸名所図会」では、社殿前方中央のあたりに描かれています。桜の木の寿命はそれほど長くはないので、きっと描かれた桜のご子孫の桜の木かなと思われます。

金王桜

この桜は、源頼朝が奥州藤原攻めに向かう際に、父義朝と自らに忠実に使えた金王丸を偲んで、鎌倉亀ケ岡の館にあった憂忘桜をこの地に移して金王桜と名付けたと伝わっています。

奥州攻めは、義経引渡しが遅れたことが口実であり、頼朝も父義朝、弟義経と金王丸のことを思い出したのでしょう。

金王桜は、長州緋桜という雄しべが花弁化したものが交じり、ひと枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しもので、代々実生により植え継がれてきたものだそうです。

ぜひ桜の季節に訪れてみたいですね。

江戸名所図会と春日局

江戸名所図会は、天保5年・7年(1834・1836)に刊行された江戸の名所の紹介とともに、当時の人々の暮らしの様子がよくわかる史料です。金王八幡宮も紹介されていて、約200年前の様子がわかります。

金王八幡(江戸名所図会)

描かれている社殿と神門は、現在のものと同じもので、こちらは慶長17年(1612)に建立されたものです。将軍秀忠の後継として家光でなく忠長が継ぐことになるかもしれないというときに、乳母の春日局と傅役の青山伯耆守忠俊は金王八幡宮に祈願を続けていたそうです。

金王八幡宮社殿

大願成就により、現在の社殿神門の造営のための金百両と材木多数が奉納されたと伝わっています。いずれも江戸初期の建築様式をとどめる都内でも代表的な建築物です。

金王八幡宮 神門

家光が後継と正式に定まったのは、元和年間(1615~24)と考えられていますので、後継と決まってからの奉納ではなくて、後継と願っての奉納が正しいのかもしれません。

金王丸御影堂

金王八幡宮のみでも見所がたくさんです。最後に紹介するのは、金王丸御影堂です。神門入って右側にあります。金王丸は、17歳のときに源義朝に従って保元の乱に出陣します。その際に哀しむ母に自分の姿の木像を残しました。

金王丸御影堂

後に頼朝の命で義経を討ちに向かう時にも、死を覚悟して残された母のために先に頼朝に所領を求めています。母親思いの武将だったのでしょう。御影堂に納められている木像は3月最終土曜日の金王丸祭で開帳特別公開されます。ちょうど金王桜の美しい季節だそうです。

毒蛇長太刀

平治の乱に敗れた源義朝とともに金王丸が長田忠致の館で襲われた際に手にし奮闘した太刀「毒蛇長太刀」も伝わっています。「鉾先に向かいその刃風に触れる者生きて帰る者なし、鍔口は遁れるとも毒蛇の口は遁れ難し」ということから名付けられたそうです。

さて、渋谷散歩と言いながら前編はほとんどすべて金王八幡宮のことのみとなりました。なんとなく、源義経を襲って武蔵坊弁慶に捕まった人、判官贔屓でみると悪役ともされてしまう土佐坊昌俊(金王丸)ですが、地元を訪ねて勉強するうちにまた違った人間性を垣間見ることができました。私もぜひ金王桜が咲き誇るときにまた訪れてみたいと思います。

次回、渋谷歴史散歩後編は、薩摩藩(島津家)邸跡~淀藩(稲葉家)跡を訪ねます。

案内図

歴史の散歩道「大江戸今昔めぐり」とともに渋谷を歩く 後編