歴史の散歩道「大江戸今昔めぐり」とともに渋谷を歩く 後編

投稿者: | 2018年1月8日

今回の「歴史の散歩道」は、2017年12月19日にリリース(ダウンドード開始)されたアプリ「大江戸今昔めぐり」とともに渋谷駅から金王八幡宮~薩摩藩(島津家)邸跡~淀藩(稲葉家)跡の順に江戸の匂いを求めて歩いています。前編は、こちらをご覧下さい。後編は金王八幡宮をあとにして、薩摩藩邸跡に向かいます。

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薩摩藩(島津家)下屋敷跡

金王八幡宮から六本木通り(首都高下の道路)に出て、渋谷駅と反対側に歩いて行くと青山トンネルが見えてきます。トンネルをくぐる手前で右に曲がり少し進むと薩摩藩下屋敷の跡地に到着します。

大江戸今昔めぐり(薩摩藩下屋敷)

大江戸今昔めぐりを見てみますと、松平(島津)薩摩守斉彬七七万八百石の表示があり、ここが幕末に薩摩藩下屋敷であったことがわかります。

この下屋敷も隠れた幕末スポットとして知られています。NHK大河ドラマにもなった「篤姫」が将軍家定に輿入れする前に、江戸での初めての生活を送ったのがこの下屋敷でした。

本来ならば、三田の上屋敷(後に鳥羽伏見の戦い前に幕府に焼き討ちにあったの屋敷)で輿入れ準備となるところ、当時安政の大地震で上屋敷が修繕中であり、下屋敷への滞在となったのです。

屋敷跡に面した道路をぐるっと一周してみます。ほとんど当時の様子はわからないというのが正直なところなのですが、いくつか往時を偲ぶものを見つけました。

常磐松の碑

薩摩藩邸には、常磐松という松があったそうです。この松は空襲により焼けてしまいましたが、幕末の嘉永6年(1853)に島津斉興に近習する薩摩藩士がこの松の由来を記した碑文が残されています。

常磐松の碑

碑文は篆字でかつ、風雪により読みにくくもなっていました。後で調べてみると、金王八幡宮に続いて源義朝の側室「常盤御前」が植えたという伝説からこの名となっていることがわかりました。

常盤御前は、平家滅亡後にこの地に来て余生を送り、六本の松を植えた(六本木という地名もこの六本の松に由来するとか)うちの一本が残り、常磐松と呼ばれるようになったそうです。「千両の値打ちが付くほどの銘木」とされ、その言い伝えを後世に伝える目的で薩摩藩士が碑文を残しました。

金王八幡宮(渋谷城)の金王丸が常盤御前を自分の所領に匿ったのではないかと想像したくなるところですが、常盤御前は義経が追われている時、すなわち金王丸こと土佐坊昌俊が義経に討ち取られた時にまだ京都にいたよう(吾妻鏡から)なのでちょっと違うのかもしれません。

それでも義経邸に討ち入る前に常盤御前に拝謁し「以後、渋谷の地を頼ってください」というくらいの話をしたかもしれませんし、歴史の空想は広がります。歴史散歩の醍醐味ですね。

篤姫もきっとこの銘木のことを藩士などから聞く機会があったのではないかと想像します。不安な江戸での生活で心和らぐ瞬間だったかもしれません。

藩邸の石垣?と常陸宮邸

付近は青山学院、國學院と文教施設が多いのですが、ぐるっと薩摩藩邸跡の地を歩く中で、写真のような石垣がごく一部ですがみることができました。何も根拠はないのですが、雰囲気は感じました。ただ薩摩藩下屋敷は、常磐松の碑が作られたころに新規に整備されたそうなので、江戸後期にこういった石積み(野面積み)をするかな?やっぱり違うかなと思うところはあります。

江戸期の石垣?

常磐松の碑から先に進むと、常陸宮邸があります。ここも薩摩藩下屋敷の敷地内であったことが「大江戸今昔めぐり」からわかります。樹木が多く薩摩藩邸の当時の雰囲気を色濃く残しているかもしれませんが、残念ながら中に入ることはできずうかがい知ることはできません。ただ、周囲を歩くと、常陸宮邸も土塁のような(中世の城郭のような)地形も塀の先にみることができました。

淀藩(稲葉家)下屋敷

薩摩藩下屋敷跡から、常陸宮邸沿いに歩き、再び六本木通りに出ます。六本木通りを渡ってそのまま直進すると青山通りの表参道駅近くに出ます。渋谷駅からですと、宮益坂を上がっていったあたりです。青山通りを渡り左に行くと国連大学があり、さらに進むとこどもの城(閉館)があります。

大江戸今昔めぐり(淀藩邸跡)

こどもの城(閉館)の敷地に沿って右に曲がり、少し進むと住宅展示場があります。ここには淀藩稲葉長門守正邦十万二千石の下屋敷がありました。

稲葉正邦は鳥羽伏見の戦いのときには、幕府の老中で江戸の治安維持にもあたっていました。鳥羽伏見の戦いの前の薩摩藩による江戸における挑発行為に正邦は強行手段をとります。庄内藩に「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下したのです。

この江戸薩摩藩邸焼き討ち事件が正月3日からの鳥羽伏見の戦いのきっかけとなったとされているので、この地も少しだけ幕末の匂いを感じることができる場所かと思います。

稲葉正邦の淀藩は、鳥羽伏見の戦いで劣勢の幕府軍の淀城入場を拒否したことで幕府軍の敗戦を決定づけることになります。正邦はそのとき江戸にいて留守居の家臣の判断でした。引き金も淀藩、勝負を決定づけたのも淀藩。歴史の不思議なめぐり合せがそこにあります。

 

薩摩藩邸焼き討ち事件を命じた老中の屋敷跡ということだけでなく、この場所に来ると150年前に思いを馳せることができます。それは、藩邸跡に現代まで残されている大名庭園の池です。大江戸今昔めぐりのマップをみると、当時の切り絵図の池の中にさらに小さな池(青点の横の濃い青のところ)があるのがわかるかと思います。

この場所は、明治以後に都電の練習場や青山病院などに使用されてきました。そして現在は、暫定的に住宅展示場となっています。様々な利用がなされてきたにも関わらず、往時の面影を残しています。調べてみると「琵琶池」という湧水による池だそうです。

稲葉邸跡 琵琶池

開発の進む渋谷にあって、江戸の面影を残す「琵琶池」。渋谷にこのような自然や史跡とも言える場所が残さていることは貴重だと思います。開発ではなく、公園にするなど後世までこの池と自然が残っていくことを切に望みます。

さて、前編後編と2回に渡って渋谷周辺を歴史散歩しました。「大江戸今昔めぐり」で迷わず歴史散歩できるのがとても心強かったです。またこのアプリを片手に江戸散歩を楽しみたいと思います。