【幕末】桜田門外の変 井伊家行列を18人の浪士が襲撃

投稿者: | 2018年3月3日

NHK大河ドラマ「西郷どん」で佐野史郎さんが演じていた「井伊直弼」。安政の大獄により西郷隆盛の人生に大きな影響を与えた人物です。しかし、安政の大獄の影響を最も受けてしまったのは、はからずも井伊直弼自身でした。

安政7年3月3日(1860年3月24日)上巳の節句のため江戸城に登城途中の大老井伊直弼が暗殺されました。江戸の終焉を早めた「桜田門外の変」の地を158年前を想いながら歩いています。前回(桜田門外の変①)は、大老が登城の途につくまでをご案内しました。今まさに18名の浪士が行列を襲い目的を果たそうと待ち構えています。

接近

井伊家上屋敷の門が開き、供回りの侍26名、足軽と小者を合わせて総勢60余名の行列が外桜田門へ向けて、刻み足(小走り)で進みます。この日は春の大雪で積雪がひざ下ほどあり、その雪は吹雪となって降り続いていました。井伊家の侍は雪合羽に柄袋の出立で、視界も不明瞭な吹雪の中を進みます。

一方、水戸浪士17名と薩摩浪士有村治左衛門の18名は、500mほど先で、ある者は武鑑を手に、田舎侍が大名行列を見物している体を装い待ち受けます。両者の距離はどんどん縮まっていきます。

襲撃

行列が豊後杵築藩3万2千石松平大隅守親良の屋敷に差し掛かった時に、浪士たちは大老の籠を中央に取り囲んだ配置となりました。

襲撃現場(青点)

そこに駕籠訴を装って水戸浪士森五六郎が行く手を遮り、咎めようと近づいた日下部三郎衛門にいきなり斬りかかります。

行列の注意を先頭に引きつけながら、横合いからは短筒が井伊直弼の籠に打ち込まれます。この銃弾は井伊大老の腰部から太腿にかけての命中弾となりました。

短筒の乾いた音を合図に、全方向から浪士が一斉に大老の首をめがけて襲い掛かります。

今回も正確な位置を確認するために、アプリ「大江戸今昔めぐり」を開きます。切絵図の松平親良邸に差し掛かるところが青点のところです。

まさにこの場所が、約160年前に双方の意地がぶつかった襲撃の場所なのです。

青点の場所から、井伊家上屋敷の方向を振り返ると電灯の奥500mくらいのところが上屋敷の門となります。撮影日は晴天でしたがそれでもこれだけの距離感があり、雪が降っていればなおそこまで退くのは困難であったでしょう。上屋敷が惨劇に気が付くのも不可能だったことがわかります。

襲撃地点より井伊家上屋敷方向

広重 桜田外の図

同じ構図で描かれている歌川(安藤)広重の桜田外の図と比較するととてもわかりやすいかと思います。奥にみえる赤門が井伊家上屋敷門です。

襲撃に驚いた井伊家の小者たちは一斉に逃げ散ります。槍持は桜田門へ、挟箱は桜田門前の上杉邸に逃げ込んだといいます。おそらく井伊家といえども小者は武家奉公の臨時雇いであったのでしょう。

下記の写真は、襲撃地点(青点)から外桜田門を望んだものです。桜田門までもかなりの距離があります。桜田門の警備の旗本らが、助けに向かうのも困難であったでしょう。もっとも可能であったとしても他の大名家のことには手出しできない(感知しない)が基本となるのかと思われます。それは周りの大名屋敷も同様です。

襲撃地点より外桜田門を臨む

供回りの侍たちは主君を守るために戦いますが、雪拵えのために抜き合せることもできずに斬られたものもいました。それでも伴目付川西忠左衛門は冷静に襷をかけ籠脇を守護し、浪士稲田重蔵を討ちます。剣豪永田太郎兵衛も二刀流で奮戦し、井伊家の侍の意地をみせます。しかし、多勢に無勢。やがて二人も戦えなくなりました。忠臣川西、稲田の刃こぼれした愛刀は彦根城博物館に保存されています。

守るものがなくなった籠に、大兵の有村治左衛門の白刀が何度も突き入れられ、動けなくなった大老井伊直弼は籠の外に引き出され、首を落とされました。襲撃からこの間はわずかに5分程度であったといいます。

次回は、主君の首を取り返そうとする侍の意地、そして首を持ち、雪の中を歩き続ける唯一の薩摩浪士有村治左衛門のその後に迫りたいと思います。

【西郷どん】桜田門外の変③襲撃その後 大老の首は一橋慶喜邸へ?