【幕末】生麦事件 事件現場の現在「我邦の変進も亦其れを源とす」

投稿者: | 2018年5月20日

文久2年8月21日(1862年9月14日)、江戸から薩摩に帰国する島津久光の400人にも及ぶ行列とすれ違おうとした騎乗のイギリス人4人が殺傷された「生麦事件」が起こりました。事件当時、西郷隆盛は久光の命により2度目の遠島(沖永良部島)となっており直接は関係していません。そのため「西郷どん」では詳しくは描かれないかもしれませんが、幕末日本を揺さぶった大事件ということもあり、その当時のことを想いながら事件の現場を歩いてみたいと思います。

生麦事件

イギリス人4人はこの日、観光目的で川崎大師に向かっていたといわれています。騎乗であっても3人は商人で女性1人は、商人の妻でした。狭い街道で島津家の行列と出会ってしまった4人ですが、下馬することなく横をすれ違えば問題ないと判断してしまったのが間違いでした。始めは2列縦隊であった島津家の行列が徐々に広がり、行き違うことができない状況になってしまったのです。騎馬の4人は左側に追いやられます。久光の駕籠の近くまで来ると薩摩藩士が何か(「下馬しろ!」「引き返せ!」)を叫び、合図を送ります。

日本語のほとんどわからない4人には通じなかったのでしょう。薩摩藩士の怒った表情と手振りから引き返せということとようやく悟った先頭のリチャードソンは慌てて馬を返そうとしましたが、狭い道で行列の脇ですから、うまく馬首を返せず、久光の駕籠近くの行列に乗り入れるようなかたちとなってしまいます。

下馬もせずに行列を乱した4人に薩摩藩士奈良原喜左衛門らが「異人無礼」と叫んで斬りかかります。攘夷の気風が強かったとはいえ、日本人であっても同じことは起こったはずです、大名行列を乱したものに行う措置としては当時は当然の処置でした。喜左衛門の一太刀を辛くもリチャードソンはかわします。「仕損じたか!」と叫びながらの喜左衛門の二の太刀が左わき腹を斜め下に切りつけました。

リチャードソンは、気丈にも落馬せずに元の道に馬を走らせます。ところが不幸にも、さらに前方で待ち構えていた薩摩藩士久木村治休がわき腹を切りつけます。騎乗している者を下から徒士が切りつけたためにわき腹部分が狙われたのでしょう。

他の二人の商人マーシャルクラークも傷を負いますが、全力で引き返します。唯一の女性ボロデール夫人は帽子を飛ばされただけで無傷でした。夫人も「ただ全力で馬を飛ばし逃げなさい!」というクラークの声のとおり横浜まで馬を飛ばし難を逃れました。

生麦事件の地を歩く

こちらが約156年前に生麦事件が起こった場所の現在の状況です。今は、ご覧のようにある程度の道路幅がありますが、当時はもう少し細い道だったのかもしれません。写真の奥からリチャードソンらが来て、手前側から島津久光の行列が来て事件は起こりました。

生麦事件発生現場

リチャードソンは、多量に出血しながらも約600mほど元来た道を引き返し、そこで力尽きて落馬します。草を掴みながら、「ミズ…ミズ…」と水を欲したといいます。あとから追いついた海江田武次信義が苦しむリチャードソンを哀れんでとどめを刺しました。

リチャードソンはこの木の下あたりで絶命したと言われている

生麦事件碑

生麦事件碑(明治12年建立)は、リチャードソンが絶命した場所に最近再整備されています。この碑文は、明治の教育者中村正直(福澤諭吉・森有礼・西周らともに明六社の主要メンバーのひとり)によるものです。キリンビール工場のビール工場受付の正面にあります。

碑文の中で印象的だったのが、「君此の海壖(かいぜん)に流血す 我邦の変進も亦其れを源とす」という部分です。まさに、激動の幕末期をさらに激震させ薩英戦争のきっかけとなるとともに、薩摩藩のその後の方向性に大きな影響を与えた「」となる事件であったことは間違いありません。

リチャードソンが斬られてから、落馬し絶命するまでの旧東海道約600mを実際に歩いてみて、異国の地での災難にさぞや無念であったろうと悲しい気持ちになりました。力尽きたその場所は今キリンビールの工場の公開緑地として美しい自然豊かな庭園が囲んでいます。それがせめてもの慰めとなるのではないかと感じました。

生麦事件ゆかりの井戸跡

事件碑近くの緑地内にひっそりと「生麦事件ゆかりの井戸跡の碑」がありました。解説がなかったため、どのようなゆかりがあるのかわかりませんでした。

旧アメリカ領事館(本覚寺)へ

いったん京浜急行「生麦」駅に引き返して、そこから京浜急行「神奈川」駅へと向かいます。マーシャルとクラーク重傷を負いながらもたどり着いた「アメリカ領事館」は神奈川駅からすぐのところにあります。幕末のこの頃は、神奈川周辺が多くの外国人の居留地となっていました。神奈川に今もある多くのお寺が領事館にあてられていたのです。

アメリカ領事館となっていたのが「本覚寺」です。横浜開港当時、ハリスは渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望みさらに湾内を見通すことができる本覚寺を領事館としました。本堂は当時のものではありませんが、山門は当時のままのもので、白くペンキを塗ったあとが今でもわずかながら見ることができます。この山門を傷ついたマーシャルとクラークもきっと通ったのでしょう。このお寺でふたりはヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士の手当てを受けました。

旧アメリカ領事館(本覚寺)

山門の白いペンキの跡

ここでお会いした地元の方にお話しをうかがうと、やはり昔はこの場所から横浜港が一望できたそうで、それは景観の良い場所であったそうです。今は大きなビルによって海は全く望めませんが、わずかに潮風の海のかおりがその当時と同じなのかもしれません。

西郷どん」では詳しくは描かれないかもしれないこの事件ですが、こういった背景も知りながらみるとまた違った見方ができるかもしれません。わたしも楽しみにしてみてみたいと思います。

周辺案内図