【北条五代】権現山合戦 伊勢宗瑞と両上杉との激闘 その緒戦

投稿者: | 2018年5月24日

生麦事件(こちらを参照)のことを調べて神奈川周辺を歩いていると、中世の城址「権現山城址」に立ち寄ることができましたので、こちらもご紹介したいと思います。

権現山合戦

生麦事件で傷ついたイギリス商人クラークとマーシャルが駆け込んで助けを求めた旧アメリカ領事館「本覚寺」と京浜急行の線路を挟んで向かい側にある「幸ヶ谷公園」は、かつては尾根つたいにつながっていました。幸ヶ谷公園のあたりは「権現山」と呼ばれる急峻な山で、本覚寺側も戦国時代には、青木城という後北条氏配下の多米氏の城がありました。

権現山(幸ケ谷公園)

戦国時代の初頭、伊勢宗瑞北条早雲)が関東への野心から当時の相模国に勢力のあった扇谷上杉氏への調略を活発化させます。扇谷上杉氏は、上杉定正が重臣太田道灌を謀殺して以降、家臣に離反が続くなど力を弱めていました。伊豆の宗瑞が扇谷上杉の重臣大森氏を小田原城から追った時(こちらも参照)も、定正の後を継いだ朝良はこれといった対応がとれずに黙認に近い形をとらざるを得ない状況でした(すでに大森氏が山内上杉に寝返っていたために伊勢氏の小田原攻めと支配を扇谷上杉氏は是認していたという説も有力です)。

現在の権現山内

その弱体化する扇谷上杉氏。家臣である相模国守護代上田政盛に宗瑞の調略が入ります。永正7年(1510)6月、政盛は相模国に近い武蔵国権現山で挙兵し、扇谷上杉氏に謀反を起こします。上田氏は、権現山のある「神奈川湊」周辺を治めていましたが、扇谷と山内上杉の和睦によって神奈川湊を明け渡すこととなり不満を募らせていました。そこを宗瑞は見逃しませんでした。

宗瑞の野心に危機感を持った両上杉は、謀反を起こした上田政盛の籠る権現山に2万余の大軍で攻め寄せます。宗瑞も権現山に出陣しますが両上杉の前に敗退します。孤立した権現山で政盛は奮戦しますが、大軍の前に権現山城は落城しました。

権現山合戦図

このとき扇谷上杉の重臣三浦氏が宗瑞の背後をついて小田原に迫ったため、宗瑞は扇谷上杉と和睦をし危機を脱しています。ここで和睦をしてしまうところに落ち目の扇谷上杉の弱さを感じます。数年後には、三浦氏も滅ぼされ、伊勢氏の相模支配は揺るぎのないものとなるのです。

権現山合戦図には、「北條上杉神奈川闘戦」とあります。後世に作られた合戦図ですが、手前側が権現山で奥が本覚寺のある山(のちの青木城)と思われます。地形の記載も含めて、時代考証的にもなかなか本格的でその頃の合戦の様子をよく表しているように思います。

この権現山、幕末には近くにある「神奈川台場」の建造のために、また明治には鉄道用地の埋め立てや、鉄道開削のために削らていて城址に違いないとようやくわかるくらいの低い山となっています。日を改めて神奈川台場のことも書きたいと思います。

周辺案内図