明智光秀 歴史新発見情報のまとめ

投稿者: | 2018年5月26日

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公として注目が集まる明智光秀。注目が集まると新史料の発見にも期待も高まります。最近では「おんな城主直虎」の放送前に直虎は男だったといったような関連史料の発見報道も記憶に新しいところですね。こちらでは、明智光秀に関する新発見情報をまとめてまいります。

光秀の妻、亡くなった年判明? 本能寺の変の前か、寄進の涅槃図に戒名(2020年8月7日)

光秀の妻、亡くなった年判明? 本能寺の変の前か、寄進の涅槃図に戒名 2020年8月7日 京都新聞

大津市比叡辻2丁目にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)が所蔵する「仏涅槃(ねはん)図」の裏に描かれた寄進銘に、滋賀ゆかりの戦国武将明智光秀の妻煕子(ひろこ)の戒名が見つかったと、大津市歴史博物館が7日発表した。煕子が亡くなったのは、本能寺の変より前の1576(天正4)年とされる説と、変の直後の82(天正10)年の説があるが、仏涅槃図は81(天正9)年に寄進されたと記されており、同博物館は「天正9年以前に亡くなったことが確認され、天正4年死亡の可能性が高くなった」としている。

出典: www.kyoto-np.co.jp

明智秀満の船戦、記した古文書見つかる(2020年5月29日)

明智秀満の船戦、記した古文書見つかる 光秀の重臣「湖上渡り」伝説の一端か 2020年5月29日 京都新聞

戦国武将明智光秀の重臣の一人である明智秀満(左馬助)が1582(天正10)年の本能寺の変の直後、瀬田城主山岡景隆に船戦(ふないくさ)を挑んだことを記した古文書が、石山寺(大津市石山寺1丁目)で見つかった。秀満は山崎合戦の後、愛馬に乗ったまま琵琶湖を渡った「湖水渡り」の伝説で知られるが、関連する史料が少なく、その生涯は謎に包まれている。専門家は「実像に迫る上で貴重な史料」と評価する。

出典: www.kyoto-np.co.jp

明智光秀「お膝元」築城前から有数の都市だった(2020年1月23日)

明智光秀「お膝元」築城前から有数の都市だった 滋賀・中世坂本で水晶遺物など発見 2020年1月23日 毎日新聞

大津市教委は23日、宅地造成に伴う同市下阪本3の発掘調査(約877平方メートル)で、15世紀後半~16世紀半ばの建物の礎石や井戸の跡を発見したほか、多数の水晶加工の遺物などが出土したと発表した。NHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公でもある戦国武将、明智光秀が坂本城を築城する以前の坂本の繁栄や、職人の様子を示す貴重な資料としている。

出典: mainichi.jp

謎の光秀出生地に新説(2020年1月15日)

謎の光秀出生地に新説、岐阜でなく滋賀? 新たな古文書発見 2020年1月15日 京都新聞

前半生が謎とされる戦国武将明智光秀の出生地について、滋賀県多賀町中央部の「佐目」と明記した1672(寛文12)年編さんの古文書「江侍聞伝録(ごうじもんでんろく)(禄)」が、県立図書館(大津市)で確認された。同様の記述は、同一著者とみられる貞享年間(1684~88年)の「淡海温故録(おうみおんころく)」にもあるが、江侍聞伝録はそれより古く、調査をした県教育委員会の専門家は「成立年代がはっきり分かり、光秀の出生地を記した最も古い史料」と指摘している。

出典: www.kyoto-np.co.jp

坂本城跡から将棋の駒や青磁が出土(2018年11月14日)

坂本城跡から将棋の駒や青磁が出土 琵琶湖水運の拠点として繁栄 2018年11月14日 産経新聞

戦国武将の明智光秀が築いた坂本城跡(大津市)から、将棋の駒や輸入品の青磁、複数の建物跡などが出土したと大津市教育委員会が14日、発表した。築城前の15世紀後半から16世紀前半のものが多く、市教委は「琵琶湖水運の拠点として栄えていた坂本の当時の様子をうかがわせる具体的な資料だ」としている。

出典: www.iza.ne.jp

織田家に仕える前の光秀の動向(2018年8月3日)

信長に仕える前の光秀、近江で活動…文書発見 2018年8月3日 読売新聞

戦国武将、明智光秀が織田信長に仕える永禄11年(1568年)以前に、近江・湖西地方(滋賀県)で活動していたことを示す文書が見つかった。光秀の動静を示す確実な史料としては最古のもので、当時から足利将軍家との結びつきがあったことをうかがわせる内容だ。

出典: www.yomiuri.co.jp

光秀の重臣・秀満の書状見つかる(2018年6月2日)

光秀の重臣・秀満の書状公開 京都・鮎ずしの礼記す 2018年6月2日 京都新聞

明智光秀の重臣で、福知山城の城代だった武将・明智秀満の書状が京都市内で見つかった。領内の土豪に対し、贈答品の礼や由良川での漁業許可を伝える内容で、専門家は、明智家による丹波北部地域の統治の実態を示す貴重な資料とみている。2日から京都府福知山市内記の福知山城(市郷土資料館)で公開される。

出典: www.kyoto-np.co.jp

光秀ゆかりの周山城の全体像判明(2018年5月26日)

光秀の周山城、全体像判明 織豊期の特徴示す、京都市測量 2018年5月26日 京都新聞

戦国武将の明智光秀が京都市右京区京北周山町に築いたとされる大規模な山城「周山城」の跡地で、市が測量調査を行い、東西1・3キロ、南北0・7キロに及ぶ城の範囲、郭(くるわ)の位置や道といった全体像を確定した。戦国期の城に革新をもたらした織田期の城郭の遺構が山中にほぼ現存しているとみられる。専門家からは発掘調査を求める声が出ている。

出典: www.kyoto-np.co.jp

1570年代に光秀が丹波平定のために築づき、その後比較的すぐに役割を終えたこともあり、織豊時代の城郭の特徴を良く残している城郭です。発掘調査でどんなことがわかるのか期待大ですね。

謀反は室町幕府再興のため?(2017年9月17日)

光秀書状原本と結論 三重大・藤田教授ら調査 土橋重治宛て返書 2017年9月17日 伊勢新聞

三重大学の藤田達生教授は12日、美濃加茂市民ミュージアム(岐阜県美濃加茂市蜂屋町上蜂屋)が所蔵する「(天正10年)6月12日付土橋重治宛光秀書状」を調査し、戦国時代の武将明智光秀自筆の原本と結論付けたと公表した。この結果をふまえ藤田教授は、光秀が織田信長を自害へと追い詰めた本能寺の変(天正10年6月2日)の動機について、「将軍足利義昭の帰洛による室町幕府再興のためにクーデターをおこした」と提唱している。

出典: www.isenp.co.jp

この史料の報道は、「麒麟がくる」が決まる前にあったのですが、本能寺の変の10日後、光秀が敗死する1日前という日付のものになります。この書状からは、光秀の謀反が幕府再興のためであったのか、または追い詰められた光秀が謀反の正当性を幕府再興に求めていたのか判断しにくいところあります。より裏付けのとれるような新史料の発見に期待したいと思います。

なお、こちらの史料は美濃加茂市民ミュージアムのWEBから解説付きで閲覧することができます。美濃加茂市民ミュージアムには、その他織田信長関係の資料も充実しています。

美濃加茂市民ミュージアム

今後も新しい発見をたくさんこちらに加えることができますように!