【幕末】勝海舟がとにかくえらいと誉めた「岡本黄石」

投稿者: | 2018年8月11日

NHK大河ドラマ「西郷どん」でも勝海舟が登場し、江戸無血開城がどのように描かれるのかもにも今後注目が集まることと思います。無血開城に尽力した海舟の心はやはり内乱により日本国が諸外国の干渉による植民地化を避けることが基本にありました。幕府や藩のことよりも大局的に日本を見ていたというのが坂本龍馬が先生として慕った所以と思います。

海舟は、明治になっても旧幕臣の支援、主家の名誉回復に努めますが、一部の旧幕臣たちからは「あいつのせいで…」と長く恨みをかうことになりました。

その海舟が自分と同じような立場で幕末期に重要な判断に迫られ、明治になってから親交を持つことで共感を覚えた人物に「岡本黄石(おかもとこうせき)」という人物がいます。今回は、岡本黄石にスポットを当ててみたいと思います。

桜田門外の変と黄石

岡本黄石は、彦根藩で禄高千石を食む家老でしたが、井伊直弼と意見が合わずに遠ざけられていたといいます。尊王攘夷の考えの強い黄石と開国やむなしと考える直弼との意見の相違とも言われています。

安政7年3月3日の桜田門外の変により大老井伊直弼が亡くなった時には、仇討に水戸藩邸に討ち入ろうとする藩士をなだめ、井伊直弼が負傷はしたものの存命であるように装い、井伊家の存続を図りました。

あくまで直弼は存命であることを対外的にも装う必要があり、豪徳寺の井伊直弼の墓石にも「閏三月二十八日」と記されています。3月3日から閏3月28日まで約2か月間は幕府には生きていることとして届け出ていたのです。

井伊直弼墓石3月28日の日付

氷川清話で海舟は黄石のことを次のように語っています。少し長いですが、引用します。

井伊大老の殺された時の処置ぶりなどは、おれも関心したよ。何でもあの時井伊の家中で、血気にはやる連中は、すぐに水戸の屋敷へ暴れ込むといって大騒ぎしたのを、黄石はいろいろに宥めて、幕府へはただ、自分の主人が、登城の途中暴漢のために傷つけられたことを届け出て、事を穏便に済ませたが、もし、そのとき黄石が思料のない男で、一時の感情から壮士どもの尻推でもしたものなら、それこそ大変で、幕府もこれがために倒れるし、すでに幕府が倒れれば、当時の形勢必ずや日本全国の安危に関るのであった。それを、まづあの通り穏やかに済ませたのだから、若い人たちが何といって誹らうが、とにかくえらい。

およそあんな場合に、一時の感情に制せられず、冷やかな頭をもって国家の利害を考え、群議を排して自分の信ずるところを行ふといふには、必ず胸中に余裕がななくては出来ないものだ。その後、おれは、あの男に会った時に、国家の大事を思って、一身の毀誉を顧みず、至極穏当な処置をしたのは、感心だといって、誉めてやったら、知己を得たといって、大層よ喜んで居たよ。(氷川清話)

ここで海舟は、黄石のことを語って誉めながらも、じつは自分自身も同じような気持ちで、一時の感情に制せられず、冷やかな頭をもって国家の利害を考えたうえで「江戸無血開城」を行ったということを語っているようにも思えます。海舟は黄石に強い共感を覚えていたことには間違いはありません。

岡本黄石

黄石自身が、「ここで彦根と水戸、薩摩が争い、3藩が取り潰しになれば、幕府、ひいては日本までが内乱状態になり、諸外国につけ入られることになる。これは何としても避けねば!」というよりも、やはり彦根藩という藩の存続を考えての処置だったというのが正しいでしょう。

ただ、結果として彦根藩内を抑え、桜田門外で井伊直弼が死ななかったことにしたことは、国内の混乱を最小にとどめ、諸外国につけ入る隙までは与えませんでした。そういう意味で、海舟が明治になって黄石を「とにかくえらい」と共感していた気持ちはよくわかります。

余談ではありますが、黄石の兄は宇津木矩之丞(うつぎのりのじょう)は大塩平八郎門下の人で、天保8年(1837)の大塩平八郎の乱に際し、大塩に考え直すように説得した人でした。周囲が熱くなる中で黄石が冷静に居られたのは兄譲りだったのでしょうか。

長州征伐と黄石

慶応2年(1866)の第二次長州征討では、関ヶ原からの伝統により彦根藩井伊家が幕軍の先鋒となり、大将を黄石が務めました。伝統の赤備えで旗鼓堂々と進軍する黄石らに対して、長州勢は「尻を端折って身軽ないでたち、紙屑拾いか何ぞのような風(氷川清話)」であったと海舟は黄石から直接聞いた話として語っています。軍備を一新して洋式化している長州勢に幕軍は大敗を喫し黄石もさすがに狼狽して退きました。

黄石談の「紙屑拾い」というような洋式化した軍の形容は、司馬遼太郎氏の幕末の小説にもでてきますが、この「紙屑拾いのようだ」という感想を初めて表現したのはおそらく黄石だったと思われます。最前線の指揮官の生の感想ですね。

鳥羽伏見の戦いと黄石

鳥羽伏見の戦いでは、黄石自身は大坂城に旧幕府軍とともにありましたが、彦根藩の主力は京にあり、ここで新政府軍に降り、大垣へ新政府軍の先鋒として戦うことになりました。桜田門外の変、長州征討、鳥羽伏見と、水戸藩に関係する人(水戸浪人や徳川慶喜ら)に彦根藩は振り回された感があります。

黄石は、その後藩の主導権を藩内の下級武士ら奪われ、歴史の舞台からは退くことになります。海舟も「終始若いものに因楯だとか、旧弊だとか、誹られて居て、本当に気の毒な人であった」と語っています。

今、岡本黄石は、主君の井伊直弼が眠る豪徳寺にともにあります。

岡本黄石墓所(豪徳寺)

【西郷どん】桜田門外の変①井伊家上屋敷から大老登城の途につく