【江戸】傾奇者?伊達者? お化け燈籠の佐久間勝之はどんな武将?

投稿者: | 2018年9月17日

今年は、戊辰戦争、明治維新から150年ということで、先日上野公園に彰義隊の旧跡を知りたくて訪れました。Googleマップで調べて歩くうちに、上野公園内に「お化け燈籠」という燈籠があることを知りました。お化けが出る燈籠?かなと少し涼しい気持ちになりながらも訪ねてみることにしました(2018年9月訪問)。

上野東照宮とお化け燈籠

上野公園には、寛永4年(1627)創建の上野東照宮があります。徳川家康が亡くなるときに、天海僧正と藤堂高虎を呼び、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところに」との遺言により高虎の屋敷地のあった所に上野寛永寺が開山し、東照社(のちに東照宮)も創建されました。

上野東照宮

現存する社殿は、徳川家光の造営によるもので、日光まで行けない江戸の人々のために、日光東照宮に準じて作られたといいます。上野東照宮のあたりは、戊辰上野戦争のときは彰義隊の本営も置かれていたそうです。アームストロング砲の砲弾や、その後の関東大震災、東京大空襲など災害や戦災を越えてここにあることに、神域としての神秘的な力も感じます。

東照宮の本殿に至る道には、大名や旗本が寄進した数多くの燈籠が並んでいます。石造りの大鳥居には「酒井雅樂頭源朝臣忠世」の名もみえます。しかし創建された当初は、まだそれらの数も多くはありませんでした。

そこに、だれに先駆けて燈籠を寄進したのが佐久間勝之です。こちらがその燈籠「お化け燈籠」です。

お化け燈籠

高さ6.06m、笠石の周囲3.63mと巨大で、その大きさにゆえに「お化け燈籠」と呼ばれています。お化けが出る燈籠でなくて一安心です。では普通の燈籠とはまったく違う大きさの燈籠を他に先駆けて寄進した佐久間勝という人はどんな人なのでしょう?少し気になりますね。

佐久間勝之はどんな武将?

佐久間氏と聞いて思い出すのは、織田信長の重臣「佐久間信盛」、柴田勝家の重臣「佐久間盛政」などではないでしょうか?佐久間氏は、元々は鎌倉幕府の御家人で、三浦氏の一族だそうです。承久の乱で尾張に所領を得て、その系統が織田氏の隆盛とともに活躍することになりました。

佐久間勝之は、盛政の弟にあたります。母は柴田勝家の姉で、はじめ叔父である勝家の養子になりました。その後佐々成政の娘を娶り婿養子になっています。

初陣は天正10年(1582)の甲州征伐での高遠城攻めで、その後末森城の戦いなどでも活躍しますが、義父の成政が秀吉に降伏すると、妻と離縁し、小田原北条氏に仕えました。しかし、その北条氏も秀吉に滅ぼされます。なんとなく、秀吉と相性が悪い勝之ですが、秀吉の命により蒲生氏郷に仕えることになります。

勝之、政宗の策を見破る!

氏郷に仕えた勝之は、葛西大崎一揆の鎮圧に貢献します。氏郷の軍勢が名生城を落とし、西高清水に陣取っているときに、伊達政宗の軍勢が到着しました。氏郷が一揆を攻めるように再三言っても政宗は動きません。そこで氏郷は政宗の心底を確かめるために政宗の陣所を訪ねました。政宗はこれを喜びます。

その座には、蒲生側は氏郷、佐久間久右衛門、前田慶次、佐久間源六(勝之)、蒲生源左衛門の順に座り、伊達側は、政宗、田村、茂庭、片倉と並びます。

酒宴となり、したたかに酔った政宗は舞をうたいながら、肴(つまみ)をと勝手(台所)に退こうとします。これに気が付いた源六(勝之)が「大将は勝手に入るようなことはしないもの」と政宗を席に戻します。

(代わりに)源六が、肴をと勝手(台所)を見ると数百の兵が事が起こればすぐに襲い掛かろうという気配。(政宗を退出させてはならぬ…と)源六勝之は、肴を手に政宗のところに行き、酒を注ぎ進めました。

政宗に酒を進めている間に、氏郷は退出します。佐久間兄弟と前田慶次は残って、政宗と京や田舎の話をし、氏郷が安全に逃れたころを見計らって宴席を離れました(以上は、「佐久間軍記」より)。

酒席の面々がとても豪華です。傾奇者と言われた「前田慶次」、伊達男の由来ともされる「伊達政宗」らです。そこで機転を利かせて政宗の策を破った佐久間勝之も相当な人物だったと想像します。のちに「お化け燈籠」を寄進するくらいですから彼らに負けないくらい派手な男だったのかもしれません。

日本三大燈篭

氏郷亡きのち勝之は秀吉に仕え、関ヶ原では東軍に、そして大坂の陣では、豊臣方の竹田永翁らを討ち取る手柄を挙げ、重なる加増により信濃長沼城1万8千石の大名となっています。

その勝之が、寛永8年(1631)に奉納したのがお化け燈籠です。自分を最後に大名にまでしてくれた神君徳川家康への感謝とともに、率先して派手に大きなことをすることで、自家の忠節を将軍家に印象付けようとしたのかもしれません。

このお化け燈籠は、現在は「日本三大燈籠」に数えられています。他の2つは、京都南禅寺尾張熱田神宮にあるそうです。

なんと…京都南禅寺と熱田神宮の大燈籠を寄進したのは…これも佐久間勝之なのです!とにかく燈籠では絶対だれにも負けないというポリシーをひしひしと感じます。それとともに、上野東照宮への寄進は将軍家や天海に、南禅寺には、以心崇伝に向けてのアピール要素も強く感じます。乱世を生き抜くために欠かせない知恵だったのかもしれません。熱田神宮への寄進は、佐久間氏本貫の地のためと思われます。

その後の佐久間氏

信濃長沼藩は元禄元年(1688)、第4代藩主佐久間勝親のときに将軍綱吉により改易となります。綱吉の側小姓を命ぜられた勝親が(病と称して)これを辞退したことに綱吉の怒りを買ったためと言われています。

きっと初代勝之は、「大燈籠を寄進してまで家を保とうとした苦労がわからぬのか…」と嘆いたかもしれませんね。

ただ東照宮を詣でると必ず目に付く勝之の功績があったためか元禄3年(1691)佐久間家の名跡は、一族の佐久間盛遠が小普請、蔵米200俵を賜ることで旗本として受け継がれることになりました。勝之も少しはほっとしたでしょうか…。

今回初めて日本三大燈籠佐久間勝之のことを知りました。他の2つの燈籠、京都の南禅寺と熱田神宮の大燈籠もいつかぜひ訪れてみたいと思います!

周辺案内図