【明治】勝海舟 西郷隆盛への想い 洗足池にて

投稿者: | 2018年12月16日

西南戦争にて西郷隆盛が賊軍として城山で敗死したことは、勝海舟にとっても痛恨事であり、海舟は終生戊辰の役で江戸の町を戦禍から守るために協力をしてくれた同士ともいえる西郷の名誉回復に奔走します。

海舟は晩年(明治24年)になって洗足池に「洗足軒」という別邸を建てます。洗足池は、戊辰の際に海舟が、官軍の参謀である西郷隆盛との交渉に池上本門寺に向かう際に通りがかり、その深山の趣のある自然に感嘆した思い出の地でもありました。今回は、海舟が愛した地「洗足池」を歩き、海舟の西郷への想いに触れてみたいと思います。(2018年12月16日最終更新)

海舟が愛した洗足池

洗足軒跡と海舟墓所

海舟は、晩年洗足軒で晴耕雨読の日々を送ります。洗足軒は、茅葺の農家風の建物で、そのまわりには、かえで、さくら、まつ、秋の草々を移し植え、次のように詠んでいます。

うゑをかば よしや人こそ訪はずとも 秋はにしきを織りいだすらむ染いづる

此の山かげの 紅葉は 残す心の にしきとも見よ  (飛川歌集)

洗足軒は、戦後まもなく焼失し今は中学校の校地となっています。洗足軒跡の案内の後ろには、木立が生い茂っていました。もしかしたら、海舟が愛した木々や草花、あるいはその子孫たちなのかもしれません。

洗足軒跡

洗足軒

洗足軒跡から少し歩いて洗足池のほとり向かいます。池のほとり近くには、勝海舟夫妻の墓所があります。生前より「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、洗足軒後方の丘に墓所を造り、今はその妻たみとともに眠っています。石塔の海舟の文字の揮毫は徳川慶喜公と伝わります。

勝海舟墓所

海舟の西郷への想い(西郷南洲留魂詩碑)

海舟の墓所の傍らにあるのが、西郷南洲留魂詩碑です。西郷が自決して一回忌に際し、海舟が私費により葛飾区木下川に建てたもので、後に洗足池に移されたものです。

西郷南洲流魂詩碑

この留魂詩碑で海舟が選んだ西郷の詩は、西郷が沖永良部島に流罪となったときのもので「獄中に感有り」と題するものでした。その最後の二句は次のように詠われ、西郷の天皇への忠節に疑いのないことを示すものでした。

生死何疑天附与(生死何ぞ疑わん 天の附与なるを)

願留魂魄護皇城(願わくば魂魄を留めて皇城を護らん)

「生死は天が与えることであるから疑いはない。ただ願わくば、魂はこの世に留めて、皇城を護りたい」という西郷の想いが伝わります。

海舟がこの詩を選んだのは逆賊として亡くなった友の汚名を晴らしたいという願いからでした。さらに海舟は、碑の背面に建立の趣旨を記しています。この文からは、西郷への海舟の想いに触れることができます。

西郷の二人の遺児寅太郎と菊次郎の海外留学にも海舟は尽力奔走します。これも西郷への想い現れでしょうか。海舟は、西郷隆盛の銅像が上野に建ち除幕式が行われた1か月後にこの世を去ります。西郷の名誉回復を見届けての死でした。

魂魄碑と海舟の想い、その解説は「幕末維新の漢詩 林田愼之助(著)」がとても詳しく、参考にさせていただきました。幕末の志士たちの漢詩は、その考え、思想に最もよく触れることができるものと思います。

勝海舟記念館(2019年夏開館)

2019年夏、勝海舟が愛した洗足池に勝海舟記念館がオープンします。幕末ファン、海舟ファンには嬉しい施設ですね。現在、大田区では勝海舟基金として寄付を受け付けています。詳しくは、勝海舟基金(寄附のお願い)を参照ください。

海舟の愛した洗足池をぐるっとひとまわりし、その風光明媚な美しさに海舟の気持ちがわかるような気がしました。また、西郷への想いも知ることができました。海舟記念館がオープンしましたら、またぜひ訪れたいと思います。

周辺案内図