【江戸時代】弘前城でまた新発見!石垣膨張の原因判明か?

投稿者: | 2017年11月3日

石垣改修工事中の弘前城でまたも新発見がありました。今回の発見は、石垣改修工事をする原因となった石垣の膨張の謎を解く鍵となりそうです。

弘前城ってどんなお城?

弘前藩津軽氏(4万7千石)の居城として築かれたお城です。桜の名所としても知られています。関東などの桜が散ってだいぶ経ったころに、TVニュースで「桜前線も弘前まで到着しました」と美しい城と桜の映像がよく放送されますね。

弘前城(ひろさきじょう)は、青森県弘前市にある日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。

出典: ja.wikipedia.org

現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている(

出典: ja.wikipedia.org

弘前城と桜

現在、石垣大改修中

弘前城の天守を支える石垣に膨張がみられ、そのために天守も傾くという非常事態が発生したため、石垣の大改修が行われています。石垣を改修するためには上に乗っている天守をいったん移さねばなりません。江戸期からの現存天守(重要文化財)を曳き家によりいったん移動させ、ひとつひとつの石垣を組み直す改修が現在行われています。この工事のすごいところは、この曳き家も含めて工事全体を公開しながら観光資源としても用いているところですね。「工事中なので見れません」とシャットアウトしないところと、改修の過程で明らかになる発見をかなり細く発表してくれるところが歴史ファンとしては嬉しいところです。

弘前城本丸東面の石垣には、以前から膨らみが確認されており、崩落する危険性から、石垣を解体修理することになり、 平成27年7月~9月にかけて、天守を約70m本丸の内側へと曳屋する工事を実施しました。 石垣修理工事には約10年間を要し、曳屋した天守を元の位置に戻すまでにも約6年かかると見込まれています。

出典: www.hirosaki-kanko.or.jp

排水遺構発見!

今回発表されたのは、石垣内から外部への排水施設です。築城した時には、水を外に逃がす工夫が施されていたことがわかりました。この工夫が年月を経て何らかの原因で活かされなくなり、逃げ場を失った水が長い年月で少しづつ石垣を膨張させていたと推測されます。

弘前城本丸の石垣大改修に取り組んでいる青森県弘前市は1日、本年度の発掘調査で石垣内部にしみ出した水などを捨てる排水遺構の構造が判明したと発表した。排水遺構の暗渠(あんきょ)(地下排水溝)がふさがれたことなどで石垣内部の水はけが悪くなり、崩落につながる膨張の一因になったと推察している。また、天守台の下に縄文時代の遺跡が残っていることも明らかになった

出典: www.toonippo.co.jp

この発見は、すごく重要だと思います。なぜなら、石垣膨張の原因が明らかにならないまま新たに石垣を積みなおしても、また膨張が始まる懸念があるためです。今回の発見を活かして、膨張させない工夫が新たに施されることに期待します。

以前にもこんな発見が

いかすみ石発見

石は、本丸の石垣修理中にある弘前城天守下の石垣四隅から見つかった。それぞれの石の大きさは、大きさ約3メートル、幅約1メートル、重さ約3トンで、イカ型の形をした隅石(すみいし)ということから弘前市は「いかすみ石」と名付けた。

公園緑地課の神雅昭さんによると「天守が作られたのは約200年前。約100年前の1915年に大規模な石垣修理が行われており、その間に組み込まれた可能性が高い。全国的にも非常に珍しい形で、専門家も見たことがないと驚いており、石の役割などはこれから調査していく」と話す。

出典: hirosaki.keizai.biz

100年前の地鎮祭跡発見

石垣の解体修理工事が進む青森県弘前市の弘前城本丸の天守台の盛り土層から5月下旬、特殊な小さな空間と銅製の容器などが見つかった。1915(大正4)年の石垣修理時に執り行われた地鎮祭の遺構、祭具とみられる。城で近代の地鎮遺構が見つかるのは、全国で初めて。 発掘調査中の市職員が5月20日に銅製容器などを発見した。コンクリートで囲まれた約30センチ四方の空間に、棒状の法具や銅製のふた付きつぼが置かれており、つぼの中にとっくりやおちょこが入っていた。

出典: www.kahoku.co.jp

弘前城本丸に記録にない修理跡発見

弘前城本丸石垣修理事業に伴う本丸の発掘調査で、これまで弘前城完成の1611(慶長16)年のものだと考えられていた本丸東面石垣の北端部分の上から2石目までが、近代以降に積み直されていたことが17日、分かった。2石目の背面からは、近代以降のガラス片が出土。さらに下の3石目の背面からは、慶長期よりも新しい17世紀前半の陶磁器の破片などが見つかり、記録に残っていない古(いにしえ)の改修の痕跡が見えてきた。

出典: www.mutusinpou.co.jp

津軽為信って義の武将?

この弘前城の築城計画を立てたのが有名な津軽為信です。実際の築城は為信が亡くなったため、信牧に引き継がれました。私の以前からの津軽為信のイメージは、「いかにも戦国の食えない武将」といった感じでした。南部氏から策略で独立して、中央に上手に取り入った感が強かったのです。

津軽為信

何度も秀吉に会いにチャレンジ

秀吉の勢力が大と知り、何度も上洛のチャレンジをしています。青森からかなり無茶な上洛作戦ですが、果敢に何回も・・。何回失敗しても秀吉に伊達政宗などよりもすごく早く謁見しています。この頑張りが認められて南部とは別の独立大名として認められました。かなりの頑張り屋さんです。


最上氏から得た情報により中央の豊臣政権に対する工作が必要と考え、天正13年初めて自ら上洛しようと鰺ヶ沢より海路出帆したが、暴風に巻き込まれ松前沖まで流されてしまう。それでも上洛を果たそうと、天正14年(1586年)は矢立峠を越えるルートを試みるが比内の浅利氏の妨害で、天正15年(1587年)に兵2,000と共に南部領を突き切ろうとするが南部氏に妨げられて、天正16年(1588年)には秋田口から進んだが秋田氏に阻まれて、いずれも失敗し引き返している。

出典: ja.wikipedia.org

石田三成との義

為信が秀吉に謁見するにあたり、申次(仲介)となったのが石田三成でした。石田三成はなかなかこういうときは相手のために一生懸命に働く印象があります。島津氏のときも島津のために三成は一生懸命でした。この恩を為信は感じていたのでしょうか。三成の子を為信は保護します。当時の状況ではなかなか出来ることではないと思うのです。石田三成と直江兼続のように為信も義の心が強かった、少なくても恩を忘れない人間だったのかもしれません。

津軽家と豊臣家の仲介役が石田三成だったため、三成とは親しかったとされる。前述の「秀吉の木像」の件に加え三成の遺児・重成を保護したことから、義理堅い一面も持っていたようである。

出典: ja.wikipedia.org

秀吉への忠義

為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、「館神」という守り神の社があった。この社は稲荷社であったが実はその稲荷様の後ろに厨子があり、その厨子は一度も開かれることがなく「館神」はその中に安置されていると言われていた。明治になってその「開かずの宮」の扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。為信は、幕府による改易の危険を顧みずに、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていたのである。

出典: ja.wikipedia.org

為信がなくなったのは1608年です。豊臣氏がまだ健在であったこと、諸大名も多くが豊臣にも尊敬の念を持って接していたことを考えると、為信が最期まで豊臣に忠義を感じていたというのもありうることなのかもしれません。なんとなく、食えない策略家というだけでないことがわかります。