【江戸】井伊直政に似てるかも?土屋忠直の徳川出世街道!

投稿者: | 2017年11月5日

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」では後半戦は、直虎に見守られながらの井伊直政の徳川家での活躍が描かれています。そんな井伊直政と少しだけ時代は違うものの、徳川家で同じような境遇から同じような出世街道を走って徳川家を支える大名になった土屋忠直を今回は取り上げます。

父上は「片手千人切り」の忠臣

土屋忠直は、1582年の生まれです。1582年は戦国史に残る激動の年、3月には武田家が滅亡、6月には本能寺の変で織田信長が討たれます。ここで忠直を直撃するのが「武田家の滅亡」でした。土屋氏の主家は武田氏で忠直の父土屋昌恒は、武田勝頼を支える側近でした。勝頼は、御親類衆(親戚)の木曽義昌・穴山梅雪らの裏切りにより窮地にたちます。最後に逃れるべく目指した岩殿城の小山田信繁にも背かれ、従う家臣も数十人までとなります。その中に忠直の父昌恒の姿がありました。

土屋惣蔵(昌恒)の活躍

天目山に追い詰められた勝頼一行は、「もはやこれまで」と最後の戦いに臨みます。勝頼の妻北条夫人をはじめとして付き従う女性は死の準備に入ります。昌恒はここで後の世に語り継がれるほどの活躍を見せます。これが土屋惣蔵(昌恒)「片手千人切り」です。崖下の藤蔓を片手で掴み、片手で太刀を振るって千人(たくさん)の織田徳川勢を寄せ付けませんでした。せめて主君が安らかに死の床につけるようにと時間を稼ぐとともに、武田武士の最後の姿を見せつけたと言えるでしょう。

武田討伐の手から逃れる

このとき0歳の忠直は、勝頼一行とは別に武田征伐の手から母とともに逃れます。そのとき逃げたのが、徳川家康が人質時代に過ごし太原雪斎の教育を受けた駿河国清見寺です。ここで良質な教育を受けたのではないかと想像できます。また、家康を育んだ寺には、徳川家とのパイプも太かったのではないかと想像します。

駿河国清見寺

徳川家に召抱えられる

数年後(1588年)、忠直6歳のときに徳川家康に召し出されます。そして、井伊直政が家康の小姓を務めたのと同様に、忠直は徳川秀忠の小姓を務めることになり、秀忠から一字「忠」を拝領まですることになります。この召抱えには、父昌恒の「武田家への忠義」が影響していることはまず間違いありません。徳川家康は武田信玄を尊敬し、武田氏旧臣を積極的に取り込みました。土屋家の同心も本能寺の後に、井伊直政に付属されています。井伊直政に少し縁がありますね。父の忠義の様が「昌恒の子であらば、武勇にも忠義にも優れているだろう」という想像を助けたことでしょう。もちろん忠直の努力もあったことと思います。

忠直の同心70名は徳川家臣・井伊直政に付属され、天正壬午の乱の最中に家康に対して忠誠を誓った天正壬午起請文を提出している

出典: ja.wikipedia.org

6歳の忠直は、家康側室の阿茶局により養育されます、この阿茶様は武田にもゆかりの方であり、秀忠を養育したことでも知られています。まさに秀忠ファミリー入り忠直は果たしました。

土屋忠直

大名に列する

1591年には、関東に入国した家康から3000石を拝領します。そして1602年には2万石を与えられ、大名に列し上総久留里藩を立藩しました。しかし、忠直も井伊直政同様に早すぎる死が訪れ、わずか1612年に31歳で世を去ります。忠直の後を子の利直が次ぎます。この利直も小姓として秀忠ファミリー入りします。新井白石の父はこの利直に仕えていました。上総久留里藩は残念ながら利直の子直樹(忠直の孫)の代で改易となりました。

正徳の改革を牽引した新井白石の父・正済は、利直に目付として仕えており、利直は幼いが聡明な伝蔵(白石)のことを「火の子」とよんで可愛がったという。

出典: ja.wikipedia.org

土屋家から老中輩出!

本家(上総久留里藩)は改易となりましたが、忠直の次男数直が今度は家光ファミリー入りを果たします。そして、順調に出世街道を走り、若年寄から老中ついには4万5千石の大名となります。

小姓から出世して徳川を支える大名に、そして老中など幕閣を務めるほどに。井伊家と土屋家なんだかとても似ていますね。土屋氏は大名の格式を維持しながら明治維新を迎えます。

いかがでしたでしょうか。今回は、NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」での井伊直政の活躍を見ていたら思い出した「土屋忠直」を取り上げました。また何か思い出したら書きおこしてみたいと思います。最後まで駄文にお付き合いいただきありがとうございました。


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