大大名の国替え話に異変アリ!池田氏の場合(2017年11月7日)

投稿者: | 2017年11月8日

今日(2017年11月7日)は、江戸期の大名「池田氏」に関係する記事が2つ重なりました。ひとつは、山陽新聞の「岡山、鳥取国替え 池田家が要請か 書簡発見、通説覆す可能性」というもの、そしてもうひとつは、神戸新聞の「朝霧に浮かぶ「雲突城」 国史跡の佐用・利神城跡」という記事です。ほんとうに偶然ですね。ということで・・若干こじつけにはなりますが、池田氏のことを中心に記事に関連することを少しだけ掘り下げたいと思います。

池田氏はどんな大名?

池田氏がどんな大名かをキーパーソンごとに少し紐解きたいと思います。

織田家の重臣「池田恒興」

まず戦国時代の武将として有名なのが池田恒興です。恒興の母は、織田信長の乳母であり信長の父信秀の側室でもありました。乳兄弟であり義理の兄弟でもあるという関係にあたります。このことから信長にも重く用いられました。着実に実績を積み上げていく恒興。そこに本能寺の変が起こります。恒興は、山崎の合戦で活躍し、主君の敵を討つことでさらに織田家内での地位を上げ、織田家の相続会議「清洲会議」でも存在感を示します。ここで恒興は秀吉を支持し、秀吉からの信頼も得ることになりました。

このころ秀吉の一族のなかで注目が集まりつつあった、のちの豊臣秀次に娘の「若御前」が嫁ぐことになり、秀吉との関係もさらに深めていきます。しかし不幸は急に訪れます。秀吉対家康の戦い「長久手の戦い」で秀次を補佐した恒興は、家康の領国「三河」を突く「中入り」作戦を進言し、その作戦の失敗により討ち死に遂げるのです。徳川家は、池田家にとって敵(かたき)となりました。

池田恒興

ちなみに「若御前」は、関白秀次失脚のときには、正室でありながら特別に助命されています。恒興の娘を斬るのは、さすがに秀吉も気分が悪かったのかもしれません。

一転家康の親戚に「池田輝政」

跡を継いだ恒興の息子「池田輝政」は、秀吉のその後の天下平定戦のほぼすべてに出陣、貢献し秀吉からの信頼を増します。ここで秀吉が徳川と池田を結びつけます。徳川家康の娘「督姫」と輝政の婚姻を仲介したのです。豊臣政権の中で重きをなす家康と輝政がわだかまりを持ったままではならないという配慮もあったのでしょう。家康は、娘の督姫を不憫に思っていました。督姫は小田原北条家と徳川との盟約の証として、北条氏直に嫁していましたが、家康は豊臣とともに北条を滅ぼすことになりました。北条氏の降伏後、家康の嘆願により氏直は命は許されますがほどなく亡くなり督姫は未亡人となっていたのです。督姫と輝政はとても相性が良かったようで、家康の輝政への信頼は絶大なものとなりました。おそらく娘を幸福にしてくれた輝政に感謝していたのでしょう。

それを示すのが関ヶ原の合戦後の加増です。緒戦の岐阜城攻めに輝政は活躍しますが、本戦では武功は立てていません。にも関わらず13万石から播磨姫路52万石へと大加増となったのは徳川家の準一族としての待遇だったのでしょう。ちなみにですが、国宝の姫路城」の整備も輝政は行っています。

池田輝政

家康の娘・督姫を娶った際、伏見の徳川屋敷を訪れた輝政は長久手の戦いで父・恒興を討った永井直勝を召し出し、その最期を語らせた。しかし、直勝が5,000石の身上だと知ると輝政は不機嫌になり「父の首はたったの5,000石か」と嘆息したという。この後、輝政は家康に直勝への加増を言上をして、直勝は1万石の大名になった。後に永井家は7万2,000石を拝領する事になった。

出典: ja.wikipedia.org

えっ?播磨姫路からの減転封「池田光政」

1616年に輝政の孫で名君の誉れも高い「池田光政」が父の急死により家督を次ぎます。まだ7歳に光政は、輝政が丹精込めて築いた姫路城(このとき親戚への所領分与により42万石でした)から、因幡鳥取32万5千石へ減転封となります。10万石近くの減封で同じだけの家臣を養う大変な苦労でした。これが池田一族にとってはまさかのトラウマとなったと想像します。

ちなみに、姫路城には本多忠刻が入ります。豊臣秀頼の正室「千姫」の再婚相手です。忠刻と千姫との間に生まれた勝姫が後に、姫路城を明け渡した光政に嫁ぎます。姫路城繋がりのご縁があったのでしょうか?

池田光政

今回発見の書状でわかること

池田家には、播磨姫路→因幡鳥取(32万5千石)の光政のほかに、備前岡山(31万5千石)の分家がありました。この分家の当主忠雄は督姫の子で家康の孫にあたります。徳川準一族としての厚遇がここでも見て取れます。この備前岡山藩で忠雄が急死し、3歳の「光仲」が跡を継ぐことになりました。なんだか光政のときと似ていますね。備前岡山も要衝であり、「3歳児では心もとなし、よって減転封」となるのは池田一族としては堪らなかったのではないかと思われます。

そのように考えると、山陽新聞の「岡山、鳥取国替え 池田家が要請か 書簡発見、通説覆す可能性」にあるように、一族間で水面下での協議により、親戚同士で所領交換で乗り切るというのも、とてもありうることのように思います。今回の書状はそれを裏付けるものとなりそうです。これまでの幕命による一方的な通告とは異なりそうなことがわかってきました。

利神城址について

利神城は、りかんじょうと読みます。このお城は輝政の甥っ子が再整備した池田氏ゆかりのお城です。天空の城として注目が集まりつつあります。

今回は、江戸期の大名「池田氏」について新発見の書状をもとに掘り下げてみました。また新たな発見に出会えますように・・。