【戦国時代】「三日月の丸くなるまで南部領」南部氏戦国大名化初期の館 遺構発掘進む

投稿者: | 2017年11月8日

今日(2017年11月8日)もまた新たな発見のニュースがありました。今回は、「三日月の 丸くなるまで 南部領(三日月のとき出発して、満月になるまで歩いてもまだ南部領というくらい領土が広い!)」と謳われ、南部氏の最盛期を築いた「南部晴政」がその青年期に館としていた「聖寿寺館(しょうじゅじたて)」の発掘調査で新たな遺構が発見されました。

聖寿寺館とは

南部晴政は1517年生まれなので、22歳頃まで過ごした館ということになります。

聖寿寺館跡は、青森県南東部、奥州街道と鹿角街道の合流点付近、馬淵川沿いの交通の要衝に立地する、南部氏本宗家の室町時代から戦国時代の本拠地です。南部氏は甲斐源氏の支流で、南北朝期に勢力を伸張し、戦国時代に東北北部地方に覇をとなえ、東北地方を代表する武士団とされています。盛岡藩の史書では、聖寿寺館は14世紀末頃から南部氏の本拠地とされていましたが、1539年(天文8)に家中の内紛によって焼亡したとされ、創建期の記録もほとんどが伝承となってしまいました。

出典: www.town.aomori-nanbu.lg.jp

聖寿寺館からは当時の南部氏の権威や都との交流を象徴するような、貴重な金箔土器や高級陶磁器が出土しています。金箔土器は東北地方では聖寿寺館跡からしか出土していません。

出典: www.town.aomori-nanbu.lg.jp

新たな遺構発見(2017.11.8)

南部・聖寿寺館跡で新たに大型建物跡を発見」デーリー東北

宗教施設?2階建て?南部町で中世の建物跡」東奥日報

規模は南北約18メートル、東西12メートル以上で、柱を立てるための穴が大きく、重い物を支える際に柱の下に敷く根石(ねいし)が建物中心部に集中的に配置されていた。これまで史跡内で見つかっていた建物よりも荷重の掛かる上屋があったとみられる。専門家は宗教的施設や2階建ての建造物があった可能性を指摘する。

出典: headlines.yahoo.co.jp

今後も、遺構の発掘調査は続きます。今回の発見も含めて全体像が明らかになるのが楽しみですね。

この調査の模様は、「南部町 史跡 聖寿寺館跡」で詳しくご覧いただけます。

その後の発見(追記)

聖寿寺館跡で「門」発見 柱は東北最大級「勢力表す」 2018年10月20日 河北新報

青森県南部町教委は19日、中世の南部氏の中心的城館だった国史跡「聖寿寺館跡(しょうじゅじたてあと)」で、15世紀~16世紀前半の遺構として東北最大級の門柱跡が見つかったと発表した。聖寿寺館跡で門の発見は初めて。町教委は「南部氏の勢力の大きさや格式の高さを表す重要な発見だ」と説明する。

出典: www.kahoku.co.jp

三戸城(聖寿寺館後の城)での発見

三戸城正門は北東北最大級/新たな礎石発見 2018年10月14日 東奥日報

三戸町教育委員会は13日、北東北最大の戦国大名・三戸南部氏の居城跡「三戸城跡(城山公園)」の発掘調査現地見学会で、16世紀後半~17世紀初めごろの本丸に通じる正門「大御門(おおごもん)」の柱を支えた礎石1個を新たに発見したと明らかにした。

出典: www.toonippo.co.jp

南部晴政と秀吉 ふたりの少し似ているところ

特にこの2人が出会って何かしたということではありません。少しだけ共通点があります。それは、子どもにすぐに恵まれなかったことです・・。そして2人とも親戚関係から養子をもらい後継といったんします。すると実子が誕生し、養子の後継が疎ましくなってしまうのです。戦国時代、自分が命をかけて築いたものは、やはり血を引く我が子に譲りたくなるのが人情なのでしょうね。それでも養子に同情してしまいます。ちょっととりとめのないこと書きました。すみません。

南部晴政の養子「南部信直」のことはこちらが詳しいです。