石川数正の出奔 大坂の陣までのサイドストーリー

投稿者: | 2017年11月14日

11月13日は、徳川家の重臣石川数正が出奔した日です。わたしも楽しみにしているWEB歴史街道の「今日は何の日」で概要がわかりやすく紹介されました。

石川数正が徳川から豊臣へ出奔した理由 WEB歴史街道

そして、もうひとつ大久保長安に関係する記事がありました。武田の旧臣であった大久保長安は八王子千人同心(武田旧臣中心に組織)の支配など、八王子の発展に貢献した人物でもあります。

「大久保長安」題材に映画の予告編風動画 八王子の商店主が1人7役演じ自主制作 八王子経済新聞

この一見関係の無いような、二つの記事を同じ日に目にして、石川数正と石川家の人々のことに思いを馳せ、少しだけ掘り下げていきたいと思います。

謎の出奔

西三河の旗頭として、徳川家の押しも押される存在であった数正の離反は現在でも謎であり、様々な想像の余地があります。豊臣家の直臣となった数正に与えられたのは8万石、これに目が眩んだとは考え難く、家康の子信康の後見人であった数正が、信康失脚の後に失地挽回とばかりに豊臣政権との融和外交で評価を上げようとしたことが他の三河武士からは、主君を売るような好ましくない動きと写ったのかもしれません。そして徳川家での居場所を失いやむを得ずの出奔が真相のような気がしますが、果たして真相はどうなのでしょう。

石川数正(長篠の戦い)

数正その後

主家に背いてしまった石川家のその後が気になります。何しろ徳川の世が来ることを知らずに後世から見れば逆目に出ることをしてしまっているのです。しかし数正はこのとき秀吉に賭けて、短期的には成功を収めます。信濃松本10万石。豊臣の直臣ですから、形の上では旧主家康と同僚です。大坂城で家康と会う機会にはどのように接したのかも気になります。

秀吉の母である大政所が徳川家の人質となった折のことです。家康の秀吉への臣従がなり、大政所が大阪に戻される時に警護を担当したのが井伊直政でした。秀吉がその労いとして茶席を設けた際に、秀吉が直政の見知った数正を相伴させようとすると、直政は「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す」と同席を断っています。とても一緒に茶の湯を楽しめる心境ではなかったのでしょう。数正も若者に手痛い一撃を被った形になりました。

それでも数正はまだ幸せでした。豊臣の栄華にまだ疑いのなかった1593年に亡くなります。300年近くの徳川の世が間近に迫っていることを知らぬままに・・。

石川家の人々

数正には、3人の子がいました。長男石川康長、次男石川康勝、三男石川康次です。数正の遺領10万石を康長8万石、康勝1万5千石、康次5千石で分与し、豊臣秀頼に仕えます。康長と康勝は家康の会津征伐に従軍し、そのまま中山道を進む秀忠の軍勢に加わります。そして信州に領地を持つ2人は同じく信州を拠点とする真田昌幸、信繁と戦い惨敗します。それでも総合的には東軍として勝ち馬に乗れたわけで、家康の天下取りに貢献したことになり所領は安堵されます。徳川家臣団とともに合戦というのはどんな気分だったのでしょうか。

順風と思われた3人。ここで運命の歯車が狂います。「大久保長安事件」です。康長の長女が大久保長安の嫡子藤十郎と結婚していたのです。長安は「天下の総代官」と呼ばれ、徳川家の直轄領や金山等を差配する官僚でした。石川家としては、長安とのパイプで徳川家との関係修復を意図したのでしょう。しかしまたしてもまったく逆目に出てしまいます。この事件に連座し、1613年(慶長18年)に3人は改易されてしまうのです。徳川家としては、同情はまったくなかったのかなと想像します。

長安は、武田信玄、徳川家康に気に入られ、抜群の才覚でのし上がった人物です。猿楽師から天下の総代官に、秀吉の出世にも重なるものがあり、金銀財宝を好んだところも似ています。この事件も謎が多いですが、公金横領による不正蓄財とされ、家康の怒りは凄まじかったと言われています。三河武士が基本の徳川家からは石川氏も大久保長安とも好ましくなかったのでしょう。

康勝が大坂城で真田信繁とともに討ち死

康長は配所で長寿を保ち89歳で亡くなります。ここで特記したいのが石川家の死に様を華々しく飾ったのが次男の康勝です。改易の翌年1614年に康勝はなんと大坂城に入ります。徳川何するものぞ!という男の意地を感じます。そして康勝が属したのが関ヶ原の折の上田城の戦いで手合わせした真田信繁(幸村)の隊でした。おそらく互いに「まさか徳川と一緒に戦うことになるとは・・」と酒を酌み交わしながら語り合ったことでしょう。真田丸で活躍し、翌年の夏の陣で天王寺・岡山の戦いで信繁の寄騎として天王寺口で戦い討ち死にします。死に場所を得て意地も示せたのではないでしょうか。

大坂夏の陣

後に天下をとる家康の重臣として、そのままであれば繁栄を約束されていたのかもしれません。ひとつの選択が全てを狂わす結果となってしまいました。時代に翻弄された一族、その中で最後に華々しい死に場所を得た康勝は幸せだったのかもしれません。

石川数正とその子たち、大久保長安真田信繁との関わりや繋がりがまた興味をそそります。歴史の面白さを改めて感じます。数正の出奔の謎も、いつか有力な史料が出てくることに期待したいと思います。


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