【安土桃山】伊達政宗の新書状発見から絶縁状、そして木村清久

投稿者: | 2017年11月16日

伊達政宗の新たな直筆書状が発見されました。文禄2年(1593年)に伊達家の(豊臣家との)取次である浅野長政の家臣にあてて長政饗応のスケジュール調整を依頼している内容のものです。

伊達政宗の新書状発見

政宗自筆の手紙発見 浅野長政の家臣へ日程調整のビジネス文書 河北新報

仙台藩祖伊達政宗が27歳の時に、豊臣秀吉の側近の家臣に宛てた自筆の手紙が見つかった。仙台市博物館が鑑定し、残存する政宗の手紙としては珍しい文禄年間のものと確認した。宮城県芸術協会設立に尽力した俳人の故杉村顕道さん(1904~99年)が入手し、家族が仙台市青葉区の自宅で保管していた。

出典: www.kahoku.co.jp

こちらは、天正18年(1590年)に政宗が豊臣秀吉に臣従してから3年後の文書で、政宗と長政がまだ表面上は?良好であったことがわかります。

政宗ほどの人でも、長政家臣宛に祐筆ではなく直筆で依頼文を書いていることが興味深くはあります。事務レベルで秘書的な家臣が調整するということでもないようです。それともそれだけ政宗が秀吉との申次である長政を尊重していた証なのでしょうか。何しろ政宗は、蘆名攻めと小田原遅参を長政のとりなしもあって許されているのです。

伊達政宗の騎馬像

伊達政宗絶縁状

そんな政宗は、文禄5年(1596年)に長政にかの有名な「絶縁状」を送りつけます。叩きつけるという表現のほうが妥当かもしれません。この絶縁状にも「長政を頼り、その指示には全て従うつもりであったが!」とあります。最後には「この絶縁状のことを秀吉に告げてもよい!」とも書いています。政宗の怒り心頭の様が読み取れます。

秀吉の姻戚でもあった側近の浅野長政は、陸奥国の大名伊達政宗にとって「御指南」に相当するところから、政宗は文禄5年(1596年)8月14日付の浅野長政宛書状で、万事について長政を頼み、その指示に対してはいかなる指示であってもしたがうつもりであった旨を書き送っている(『大日本古文書 伊達家文書之二』675号文書)[4][注釈 6]。
しかし、同書状には、長政の「指南」には政宗の知行を自発的に秀吉に進上することまでを含んでおり、他の9か条の不満もあわせ掲げ、長政の「指南」には到底したがえないと結んでおり、彼に対する絶縁状となっている

出典: ja.wikipedia.org

政宗青年期の血気盛んな様が読み取れます。長政にしても、「伊達家は俺のおかげで・・・」という気持ちが働き、政宗を軽く扱う部分があったのかもしれません。

浅野長政


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秀吉への恩義に殉じた木村清久

この絶縁状では、「長政が(俺の嫌いな)蒲生氏郷や木村吉清と仲が良いのが許せない」というような少々自儘な記載もあります。蒲生氏郷木村吉清・清久父子は、天正18年(1590年)の葛西・大崎一揆からの因縁の間柄です。この一揆あくまで黒幕は政宗という説が有力なので、長政からすると納得がいかないことだったかもしれません。

この木村父子、私は、5千石から一躍旧大崎葛西領30万石の大領主となるも、まったくそれを収めることができなかった無能な武将の印象が強かったのです。一揆の責任をとっての改易後に、蒲生氏郷の客将として5万石、そして氏郷死去後も豊後国1万4千石の大名に返り咲く粘り強さを発揮しています。しかし、吉清死去後、清久は関ヶ原では本戦には参加せずも、西軍であったために改易。とても残念な感じです。しかし、この清久は豊臣恩顧のものとして、大坂の陣ては大坂城の馳せ参じているのです。秀吉への恩義に殉じたということもあり、今では少々好感を持っています。

絶縁のその後

政宗と長政が和解することはありませんでした。それどころか江戸期を通じても伊達家と浅野家は和解していません。一度、正徳2年~3年(1712-1713)に「大大名間の不和は宜しからず」と林信篤らの仲介で広島藩主浅野吉長と仙台藩主伊達吉宗との和解話が持ち上がります。しかし、伊達家中の反対で実現しませんでした。

1994年になって伊達家と浅野家の和解の茶事が催されました。実に398年ぶりの和解となったのです。政宗の怒りの様からすると不本意なのではないかと少し心配になりますね。

今回もいろいろ話が飛びました。読み苦しくなりすみません。伊達政宗の書状はかなりの頻度で見つかるので今後の新たな発見にも期待したいと思います。