来島又兵衛といえば、私は、やはり蛤御門とその奥(門の正面)にある樹齢300年の椋(ムク)の木を思い出します。蛤御門には生々しい銃弾の跡、そして椋の木は、又兵衛が銃弾を受けて自害をした場所です。御所の土塀からわずかな距離、どのような思いで散っていったのでしょうか。そんな来島又兵衛を思い出すきっかけとなった「ふすまの下張り」を中心に書いてみようかと思います。
来島又兵衛新資料が公開
発見され今般公開されたのは、禁門の変(蛤御門の変)で長州藩の先頭に立って幕府・会津・薩摩等と戦い銃弾を受けて自害した「来島又兵衛」の人柄や働きぶりの分かる資料です。
美祢・幕末の志士「来嶋又兵衛」新資料発見 2017年11月18日 tys山口
幕末に長州藩が京都での復権を目指した「禁門の変」で戦死した来嶋又兵衛の、人柄などを表す資料が発見され美祢市で公開されています。
来島又兵衛と覚えていましたが来嶋又兵衛が本来の表記のようですね。蛤御門の変に先立つ軍議の発言力などから、久坂玄瑞らよりも歳上のためか、かなり指導的立場で長州を牽引していた人物のようです。
そんな又兵衛も、働き者で家族思いであったそうで、どんなことが書いてあるのか詳しく知りたくなります。
維新烈士来嶋又兵衛その人物像ー美祢に残された資料から 特別展は平成30年7月まで行われています。
維新志士来嶋又兵衛は武術に秀でた剛直な人物というのが一般的なイメージです。しかし、本特別展では新発見・初公開の資料をもとに、従来のイメージとは異なる人物像を紹介しています。
出典: www.c-able.ne.jp
ふすまは歴史の宝庫
今回の史料もふすまの下張りから発見されました。旧家のふすまの下張りは「何かあるかもしれない」ということで寄付などを受けて保存調査するのがかなり一般的だそうです。「下張り(したばり)文書」といって中には歴史的な常識が見直されるほど価値がある発見もあるそうです。
新たに見つかった資料は来嶋の日記や手紙など、およそ50点です。旧宅で使われていた「ふすま」を寄贈された美祢市が、下張りの中から発見
「こんな大切な文書や手紙を下張りに使ってしまって~」とわたしのような素人は思うのですが、よく考えてみるとふすまの下張りに使ってくれていたからこそ、大切なものが破棄されずに残ったということで、張ってしまった方に感謝すべきなのですね。
襖(ふすま)や屏風などの下張りに、昔は古証文や大福帳を解体した反故紙を使用していました。そのため、下張りをはがすと古い時代の古文書が発見されることがあります。これを下張り文書といいます。
その当時の人々には不要となってしまった文書でも、現在ではたいへん貴重な史料なのかも知れないのです。
下貼り(したばり)文書の発見事例等
島津家で「あわもり出る」 鳥取藩士の手紙180枚発見 2017年9月10日 朝日新聞
花神 大村益次郎 【第2回】ふすまの下張り文書から見えてきた素顔 2010年7月23日 山口きらメール
潮満寺の襖の下張りのから発見された「大村益次郎文書」を2ヶ月毎に展示し、大村益次郎の人柄や、維新前夜の出来事などを紹介する小展示。
ふすまの下張りを剥がす市民講座なども各地で行われています。なんだか宝探しのようで楽しそうですね。小学生の社会科の授業などでも歴史に関心を持つきっかけに良いかもしれないですね。
ふすまの下張り剥がし、私はやったことがないのです。ただ長野県松本の旧家でボランティアで障害者の方の家の掃除をしたときに、普段使っていないという2階にあがりそこで見たのが、「昭和初期の新聞」でした。ふすまではなかったのですが、壁の湿気取りか何かでたくさん貼ってあったのです。江戸時代から昭和まで今以上に紙が貴重で、リサイクルとして無駄なく使っていたんだなぁと知ることができました。近所で市民講座などあれば、ぜひ下張り剥がしにチャレンジしてみたいと思います!