今日は名将言行録から宇喜多秀家に関する逸話(元々は徳川実紀に収録)を紹介します(旧字体の書籍からの意訳なので、不十分な面もあるかもしれません。すみません)
宇喜多秀家は関ヶ原で敗れた後、薩摩に落ちます。しかしながらそのことが江戸にも聞こえ、八丈島に流罪となり明暦元年(1655年)84歳で亡くなります。石田三成や安国寺恵瓊、小西行長らは捕縛さえていますので、関ヶ原から無事に落ち延びるのは大変なことでした。家臣進藤三左衛門正次の機転が、東軍の捕捉の手を緩めさせたのかも知れません。
宇喜多秀家薩摩落ちの逸話
関ヶ原の合戦に敗れ、秀家は伊吹山に逃げます。そのとき家臣の進藤三左衛門正次ただひとりが付き従いました。正次は秀家に言いました。
「日頃、殿が御身に付けている鳥飼國次の脇差は、多くの人が殿の大切にしているものと知るところです。これを私に賜れば徳川の陣に行って策を用いて何とかしたいと思います。その間に、何とかここを離れて、薩摩へ落ちてください」
そして正次は、脇差を持って本多忠勝の陣へ出頭します。
「私は、(進退窮まった)主人秀家をこの手にかけて、遺体を深く埋めました。その証拠として(秀家が片時も手放さなかった差料)鳥飼國次を持参しました。」
忠勝は問います。「なぜ検死を受けずに勝手に秀家の遺体を埋めたのか?」
「秀家は厚恩の主人です。どうしてその首を敵方に渡し、梟首(さらし首)に掛けられるようなことができましょうか。」
「この脇差は、秀家がいつも愛して片時も手放さなかったことは内府公(家康)もよくご存知のことです。内府公にご覧頂いてください」
忠勝は、鳥飼國次を家康に見せました。家康はこう言います。
「彼を疑いようもない。正次ほどのものであれば、秀家を害せずば、よもや我らに下るようなことはあるまい。徳川家に召し抱えよ」
しかし、世間は正次のことを陰でこう言います。「主を害して自分の功績にするなんて、後々どんな誅伐が下るかわからない」と。
秀家は、窮地を脱して、なんとか薩摩に逃れます。しかし、薩摩にいることがわかり召喚されます。正次の前言が齟齬が生じていることは明白でした。正次は糾明されます。
「いかにも秀家様を逃がさんがために偽りごとを申しました。ただそのためにこの身を失うのは元より承知していたことです。いかなる重罰も覚悟しています」
家康はこれを聞き賞賛します。「自分の一命を棄ててまで主の命を救わんとする天晴忠義のものである。」と、正次は罪に問われませんでした。
秀家が八丈島に流されてのちも、正次は恩を忘れずに米や金を送り続けます。それが聞こえ、正次は500石を賜る旗本となりました。
進藤 正次(しんどう まさつぐ、永禄7年(1564年) – 慶長17年4月14日(1612年5月14日))は、徳川氏幕臣(旗本・知行500石)。通称は三左衛門。
出典: ja.wikipedia.org
鳥飼國次はどこに?
宇喜多秀家の愛した名刀「鳥飼國次」は、江戸期に大名家の所蔵となり、現在は黒川古文化研究所(兵庫県西宮市)の所蔵となっています。現在(2017年11月19日)、下記のとおり寄贈を記念した展示が行われています。ぜひこの逸話も思い出しながら秀家の愛した刀をご覧になってみてはいかがでしょうか。
黒川古文化研究所 (兵庫県西宮市)
名物「鳥飼来国次」受贈記念
刀剣のかがやき 刀装具のいろどり
会 期 10月14日(土)~11月26日(日) 休館日 月曜
開館時間 午前10時~午後4時(受付は15時30分まで)
わたしは、正次のように主君に最後まで忠義を尽くした人物の逸話がとても好きです。「また紹介したい!」と思えるような逸話に触れる機会がありましたらご紹介させていただきたいと思います。