浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の本願寺史料研究所が新たに発見された幕末の文書を24日に発表しました。黒船来航のことや14代将軍家茂の病状のこと、そして将軍職を辞した前将軍慶喜へ西本願寺がどのような政治的な配慮を行っていたかなど関係性がわかるものとなっています。
260年あまり磐石であった政権が朝廷に大政を奉還した直後に、その大舞台であった京都において大寺院が世の中の行く末定まらぬ中、情報網の駆使している様を通じて、時勢の風、匂いを感じることができます。
本願寺の西と東
この文書を理解する助けとしては、西本願寺の江戸期を通じての政権との距離感を少し知っていたほうが良いように思います。そもそもどうして本願寺には西と東があるのでしょう。
本願寺は戦国時代、本願寺顕如が最盛期を築き、石山本願寺を拠点に勢力を拡大します。同時期に織田信長が畿内に進出し、顕如は信長包囲網を築き拡大を続ける信長に対しますが、浅井・朝倉氏の滅亡や足利将軍の追放など包囲網は次々と破られ、天正8年(1580年)3月に和睦、石山を退去し紀伊国鷺森別院へ移ります。
このときに、顕如の長男教如は石山本願寺に残って8月まで交戦し続けました。顕如は教如を義絶します。天正10年(1582年)の信長の死後に教如は義絶を赦免され、以後顕如が亡くなるまで寺務を助けることになりました。
顕如が亡くなると本願寺を教如が継承します。この時、石山本願寺で最後まで籠城した強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した穏健派は重用しなかった為、教団内に対立が起こります。ここに二派が形成されることになったのです。
豊臣秀吉も巻き込みながら二派の権力争いは続きます。穏健派が秀吉に働きかけ、元々教如が主君信長にも抵抗を続けていたこともあり印象が良くなかった秀吉は、教如に対して10年後に弟の准如に本願寺法主の地位を譲ることを命じました。強硬派は秀吉に異議を申し立てますが、逆効果。秀吉は怒り「ただちに退隠せよ」と命じます。
豊臣家の命により本願寺は准如が法主となり、これが後に西本願寺となるのです。豊臣の後ろ盾もありましたので、関ヶ原では西軍に近い動きとなります。再び教如へ法主を変えるということも家康はやろう思えば出来たでしょう。そのために徳川家(幕府)とは少々微妙な関係というのが西本願寺の基本的な位置と考えられます。
慶長7年(1602年)徳川家康は、教如に対して新たに七条烏丸に土地を寄進し、教如を支持する(かつての強硬派)は新たな堂舎に移ります。これが後に東本願寺となるのです。家康としては、元々二派であった本願寺を無理に一派にするよりも二派を正式に位置づけ、バランスをとったほうが宗教政策上得策と考えたのでしょう。徳川家からの支援がありましたので、徳川家に近い関係が東本願寺の基本的な位置と考えられます。
西本願寺は、関ヶ原で勝ち馬に乗れず、江戸期を通じて東本願寺との関係も含めて微妙な位置になってしまったこともあり、260年後の徳川家と新政権の新たな天下分け目で(その苦い経験から)どのように舵をとるか苦慮していたのではないでしょうか。その様子が今回発表の史料から感じることができます。
西本願寺の新発表史料
慶喜にとりあえず見舞い品を 大政奉還後、西本願寺が命令 2017年11月25日 京都新聞
西本願寺が大坂の津村御坊(津村別院)に送る命令書の下書で、慶喜が大坂城に入った2日後の12月14日付。それまでは競うように豪華な贈り物をしていたのに、最高権力者ではなくなった慶喜には、「不取敢(とりあえず)」、しかも「御内々」に見舞いの品を贈るよう指示。慶喜と親しい関係だと思われないような文面を添えるよう配慮した。その上で、会津藩主で京都守護職だった松平容保らへの見舞いも「目立たぬように品物を内々に取りはからえ」と命じていた。「当節柄」という記述が3カ所あり、政治権力の行方が読み切れない当時の雰囲気が読み取れる。
贈答品は、慶喜には鴨のつがい、容保ら計5人には鴨か「カステイラ」を贈るよう指定していた。
この書状が書かれたのは12月14日です。この前後の主な出来事は次のとおりです。
- 10月14日 大政奉還
- 10月24日 将軍職辞任申し出
- 11月15日 坂本龍馬暗殺
- 11月18日 油小路の変
- 12月 9日 王政復古の大号令(慶喜の将軍辞職が勅許される。幕府、京都守護職・所司代廃止。)
- 12月12日 慶喜大阪へ退去
- 12月14日 王政復古の大号令が大名に伝達、今回の書状
- 12月18日 墨染で近藤勇が襲撃される
- 1 月 3日 鳥羽伏見の戦い
私は、本願寺が「王政復古の大号令」の詳細を正式に知ったのが、12月14日であったのではないかと想像します。そこには将軍辞職の勅許が下りたことも含まれています。そのため、新政権についてまだ薩摩なのか長州なのか、朝廷の公家勢力なのかしっかり把握までできてはいないものの、その新政権に慮りつつ、まだ力のある前将軍や前京都守護職らにも「不取敢(とりあえず)」でも(職を辞したことへの)見舞いの品を贈るという趣旨であったのではないでしょうか。
西本願寺と新選組島田魁
西本願寺には、元治2年(1865年)3月から慶応3年(1867年)6月までの2年3ヶ月間新選組が屯所として間借りしていました。新選組の京都での活躍期間中の半分くらいはこの屯所を拠点としていたことになります。新選組隊士(二番組伍長)島田魁にとっても、正に新選組の輝ける期間、青春の場所として西本願寺は写ったことでしょう。
今回の書状が書かれた12月14日に「島田魁日記」によると新選組は、二条城から大阪に下り、16日には伏見城に入ります。18日(島田日記では23日)に隊長近藤勇が御陵衛士の残党に狙撃されます。このとき島田魁が近藤の馬に鞭を入れ近藤は危うく難を逃れています。この時期、京都大阪間は、正月3日に起こる鳥羽伏見の戦いを前に、緊迫な情勢でした。
ここで島田魁のことに触れたのは他ではありません。私は西本願寺幕末というと、島田魁を思い出してしまうのです。島田は、新選組の京都以来の隊員として五稜郭まで土方歳三とともに戦い抜きます。この様子は、「島田魁日記」に詳しいのでぜひ未読の方にはおすすめします。そして島田は、明治19年(1886年)から明治33年(1900年)まで、青春の地西本願寺で夜間警備員として働いているのです。その最期も西本願寺での勤務中でした。
島田が西本願寺で働くようになった経緯はわからないのですが、昔付き合いの縁故があったのか、それとも青春の思い出の地で、かつての友たちを思い出せる場所であったのか・・・。私は後者の気持ちが強かったのではないかと思います。土方の戒名の書いたものを常に胸に収めていたそうですから・・・。
さらに感傷的になりますが、三谷幸喜作詞の「新選組!」の主題歌が島田の気持ちとぴったりのように感じます。
「新撰組!」主題歌 作詞 三谷幸喜 作曲 服部隆之
いとしき友はいずこに
この身は露と消えても
忘れはせぬ 熱き思い
誠の名に集いし 遠い日を
あの旗に託した夢を
今回の発表その他の報道
生き残り懸け将軍のカルテ入手 幕末の西本願寺 2017年11月25日 京都新聞
慶応2(1866)年7月4日、朝廷は漢方医の高階経由らを大坂城に派遣し診察させた。西本願寺には経由の息子経徳からの手紙が残り、経由に情報を送るよう依頼したことをうかがわせる。それに対して7日に京都へ帰った経由の返信(8日付)は「せがれ(経徳)へのお手紙の内容、委細承知」「極御内々」と同寺の求めに応じ、家茂の容体書を同封してあった。
容体書は7月5日付。家茂は6月下旬から体のむくみや発熱、嘔吐(おうと)、食欲不振、尿が出ないなどの症状があり、このままだと脚気(かっけ)になる恐れがあり、心臓機能の低下となれば「計り知れない」と記されていた
今年2017年は、大政奉還から150年にあたります。150年前の空気を吸ったような感じになれる発表でした。今年と来年はさらに様々な新発見に触れる事が出来ると思います。期待したいですね!