【忠臣蔵】「元禄御畳奉行の日記」から当時の赤穂事件世評の考察

投稿者: | 2017年12月15日

元禄15年12月14日(1703年1月30日)に赤穂浪士が主君の仇吉良上野介を討ちました。いかなる理由(遺恨)で主君浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけたか、赤穂浪士にとってはそれが問題ではなく「君辱められれば臣死す(君辱臣死)」の気持ちがさせた行為であったのであろうと推測します。

約45年後の寛延元年(1748年)に赤穂事件を題材にして竹田出雲(二代目)らにより「仮名手本忠臣蔵」が人形浄瑠璃として大人気となりました。ノンフィクションからエンターテイメントとなる過程で、物語性を増したものが赤穂事件の事実のように伝わりがちなところがあります。ただ、ノンフィクションのままであればこれほど事件が後世まで広く多くの人に伝わらなかったとも考えられます。

ちょうどこの事件があったころ、尾張徳川家に100石どりの侍がいました。平凡な武士ではありましたが、約30年近く毎日の出来事を日記にきちんと記すことができる稀有な才能がありました。この日記と赤穂事件の日の記載についてご紹介します。

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鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)

鸚鵡籠中記を書いたのは朝日文左衛門重章という侍は、ほんとうに筆まめでした。普段の仕事や生活や、出張旅行、旅行先で食べたもの、世間のスキャンダルやトレンド情報など赤裸々に書き上げています。

果ては殿様の評判や殿様の生母のスキャンダルなど、もしもばれてしまったら切腹もののことまで書き残しているのです。もちろん噂などで文左衛門の耳に入ってくるということは、誰かから聞いているということですから、なんだか封建社会であっても殿様のことをあれこれ言える、思っているより「言論の自由」がこっそり?とあったのかなと微笑ましくなります。文左衛門は現代に例えるならさながら「ワイドショーおじさん」とでも言えましょうか、ほんとうに興味津々で情報を集めています(笑)

殿様の事など赤裸々に書いているのは、文左衛門自身が後世にこれを伝えるというよりは「自分の記録」として書いていたためで、あまりにもきわどい記載のためにその死後250年あまり門外不出の書となっていました。それが昭和40年代にやっと公になり知られるようになったのです。

私は、神坂次郎著の「元禄御畳奉行の日記」で朝日文左衛門重章のことを知りました。元禄御畳奉行の日記は文左衛門の人柄を含めて、ほんとうに面白く鸚鵡籠中記を解説してくれています。一見華やかな印象のある元禄時代の影の部分も日記からは読み取ることができます。そして読んでいく途中で多くの方が愛すべきキャラの文左衛門のことをきっと好きになるでしょう。

赤穂事件の記載

さて、赤穂事件については文左衛門は内匠頭が切りつけて切腹となったことを「殿中の喧嘩は是非を論ぜず、先太刀打つ者非分なる事なり」と記し、ここでは喧嘩両成敗というより「先に手を出したのですから、(まぁ当然ですね)」と蛋白に捉えています。

そして、討ち入りについては12月15日(名古屋に伝わってからの追記か)に次のように記しています。

「夜、江戸にて浅野内匠家来四十七人亡主の怨を報ずると称し吉良上野介首を切り、芝専(泉)岳寺へ立退く」とこれも事実の記載にとどまっています。

神坂次郎氏は、あの文左衛門がこれだけ興奮もせず、あっさりとした記述にとどめているということは、「元禄の快挙」として江戸八百八町が熱狂したということではなく、45年後の「仮名手本忠臣蔵」公演以降、「歳月とともに醸酵し、潤色され、それが事実だと観客たちに信じられるようになってから、爆発的な忠臣蔵ブームが湧きおこったのであろう。がこれはあくまでも「忠臣蔵ブーム」であって、赤穂浪士ブームではない。すくなくとも討ち入り直後、名古屋城下で士庶が”元禄の快挙″に拍手をおくったという事実はない。(元禄御畳奉行の日記より引用)」と考察しています。

赤穂事件から仮名手本忠臣蔵の間の45年間は意外と長い月日のように思います。鸚鵡籠中記により事件当時(仮名手本忠臣蔵以前)の世間の反応がわかったのは、とても嬉しく思います。文左衛門の日記はほんとうに面白いです。赤穂事件のほかにも「生類憐れみの令のとき名古屋では・・・」など元禄時代のことがリアルに伝わってきます。読み終わったあとは思わず「文左衛門さん、まめに日記残してくれてありがとう!」と言ってしまうこと間違いなしだと思います。