都心の最高気温が10度に届かない12月の寒い日に、都内でも有数の幕末に思いを馳せることができるスポットである世田谷区の松蔭神社前から豪徳寺へ歴史散歩に出かけました。
松蔭神社は、長州藩の吉田松陰が死後祀られている(墓所もある)神社であり、豪徳寺は彦根藩井伊家の菩提寺で幕末の大老井伊直弼が眠っています。その距離は、わずか数百メートル。吉田松陰は井伊直政が行った安政の大獄で刑死していますので、奇縁と言っていいでしょう。
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謀叛論から
謀叛論は、徳富蘆花が大逆事件(幸徳秋水事件)で幸徳秋水が死刑となった後のある集会における演説文です。蘆花は兄徳富蘇峰を通じて時の総理桂太郎に助命を働きかけますが叶いませんでした。蘆花は秋水と考えは違えども、秋水を国のことを真に考えていた人物とみていました。以下はその最初の部分です。今回の歴史散歩スポットの位置関係の助けになるかと思います。
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往(ゆ)くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互(たがい)に倶不戴天(ぐふたいてん)の仇敵で、安政の大獄(たいごく)に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨(おんえん)を消してしまって谷一重(ひとえ)のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎(じゅんこ)として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨(ごうこつ)の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟(ひっきょう)今日の日本を造(つく)り出さんがために、反対の方向から相槌(あいづち)を打ったに過ぎぬ。彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけの事を存分にして土に入り、余沢を明治の今日に享(う)くる百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。(謀叛論草稿より抜粋)
出典: www.aozora.gr.jp
「百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている」と同様に、「私も、さりげなく墓の近所で呑気に散歩をしている」といった感じになります。この文章とても心に響きます。
松蔭神社
東急世田谷線の松蔭神社前駅から徒歩で5分程度で到着です。
文久三年(1863)正月に高杉晋作、伊藤博文らは、千住小塚原回向院で刑死した松陰の亡骸を世田谷若林大夫山と呼ばれたこの地の楓の木の下に改葬しました。この場所には当時長州藩の抱屋敷がありました。
明治15年(1882)、松陰の眠るこの地により神社が創健されました。
神社内の32基の石灯籠は、毛利元昭(長州藩最後の藩主元徳の長男)や松蔭門下の伊藤博文、山縣有朋などにより明治41年に寄進されたものです。
参道を石灯籠の列に沿って左にそれると、吉田松陰の墓所があります。吉田松陰とともに、頼三樹三郎、維新の十傑のひとり広沢真臣のお墓もあります。
松陰の墓所は、禁門の変の後の長州征伐の際に、幕府により破壊されました。明治元年(1868)に墓は木戸孝允らの手により修復されます。その挙を聞いた徳川氏から謝罪の意を込めて灯篭と水盤が寄進されました。
松陰の墓所の紅葉がみごとでした。松陰の情熱ととても重なるように思いました。
桂太郎の墓所
松蔭神社のすぐそばには、日露戦争時の首相(約100年前の総理大臣)桂太郎の墓所があります。西園寺公望とともに「桂園時代」と呼ばれる安定した政治体制を築きました。桂の苗字のとおり長州藩の出身です。「平素崇拝する松蔭神社隣接地に葬るべし」との遺言によりこの地に葬られています。
ここから谷を隔てて数百メートルの豪徳寺に向かいます。この様子は、次回ご案内したいと思います。