「歴史の散歩道(松蔭神社~豪徳寺)吉田松蔭と井伊直弼①」に引き続き、松蔭神社を後にして豪徳寺へ向かいます。豪徳寺は、徳富蘇峰の曰く「(吉田松陰と)今日の日本を造り出さんがために、反対の方向から相槌を打った」井伊直弼の眠る地です。
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世田谷城址
豪徳寺に向かう途中に世田谷城址公園として整備された世田谷城址があります。
豪徳寺のある地には、戦国時代まで世田谷城という城があり、足利氏の一族である武蔵吉良氏が代々治めていました。有名な吉良上野介は三河吉良氏の流れなので、同族ですが系統は異なります。
武蔵吉良氏は、鎌倉公方に従っていましたが、戦国時代に入ると後北条氏に従属し、小田原征伐で後北条氏と運命をともにしており、世田谷城はこのときに廃城になっています。現在は、世田谷城址公園としてわずかな部分のみが整備されています。当時の様子が少しだけイメージできるかな…というくらいの状況です。
武蔵吉良氏は、江戸期には旗本として家名を保ちます。そして三河吉良氏が赤穂事件で廃絶した後、武蔵吉良氏が高家として吉良氏の本流となっています。
豪徳寺
吉良氏の世田谷城には弘徳院という庵がありました。この庵を寛永10年(1633)に井伊直政の子で彦根藩主の井伊直孝が井伊氏の菩提寺として再建整備し、直孝の戒名から豪徳寺となりました。
なぜ彦根の井伊氏が?といいますと、現在の世田谷区の大部分が彦根藩江戸屋敷賄料として井伊氏の所領(彦根藩世田谷領)となったためです。
江戸で亡くなるお殿様やその家族のために、江戸近郊に菩提寺を設ける必要があり世田谷領に豪徳寺を整備したのです。
招き猫の伝説
招き猫発祥の地は何箇所かあるそうですが、豪徳寺もその一つです。彦根藩井伊家と招き猫の伝説から彦根城の「ひこにゃん」が誕生しています。猫に関係する2つの話が伝わっています。
- 井伊直孝が鷹狩りの際に豪徳寺に立ち寄ると門前に手招きしているような仕草の猫がいました。このため寺に立ち寄って休憩することにしました。すると雷雨が降り始め、雨に濡れずに済んだ直孝が大変喜び荒れていた豪徳寺を再建整備しました。
- 直孝が豪徳寺の木の下で雨宿りをしていると1匹の猫が手招きをしていました。直孝がその猫のところに行くと、さっき雨宿りをしていた木に雷が落ちました。雷を避けられたことに感謝した直孝は多額の寄進をしました。
なんとなく、後者のほうが猫に感謝するかな?と勝手に思ってしまいます。雨が避けられたという理由でこんなに立派なお寺を整備するかな…でも前者のほうがほのぼのとしますね。
井伊家代々の墓所
おんな城主直虎でも大活躍の井伊直政の子で豪徳寺を再建した井伊直孝にもご挨拶をして井伊直弼の墓所に向かいます。直孝は、大坂の冬の陣で真田丸で痛い目にあいますが、夏の陣では先陣として木村重成・長宗我部盛親を破るなど徳川の先陣は井伊と決定づける活躍をしています。
井伊直弼の墓所までは、松蔭神社からゆっくりと歩いて(途中の案内板など読みながら)40分ほどで到着しました。広い井伊家の墓所には冬の寒い日であったこともあり、訪れる人も少なく、1対1で幕末の大老井伊直弼と向き合っているような気持ちになりました。徳富蘆花の謀叛論を読み、吉田松陰の眠る地の後に訪れたことで幕末の日本の困難な舵取りと一身に引き受けた苦労と孤独に思いを馳せました。
江戸の名残① 井伊家江戸藩邸の赤門
井伊家の菩提寺には、彦根藩江戸屋敷のものと伝わる赤門が移築されています。小さな門のため、江戸屋敷内のどこで使われていたかなどはわかりません。ただ井伊の赤備えを今に伝える貴重な江戸の名残だと思います。
江戸の名残② 佐倉藩堀田家屋敷書院
豪徳寺内のこちらの建物は、関東大震災後に旧佐倉藩の江戸屋敷のものを移築したものだそうです。譜代11万石の大名屋敷の重厚感が感じられます。
松蔭神社から豪徳寺へ所要時間1時間30分くらいで幕末の香りにたっぷりと浸ることができます。そして安政の大獄の背景などを考えながら歩くにはとても適した場所です。幕末好きな方にぜひおすすめしたいと思います。