戊辰戦争から150年、そして江戸の終から150年、その面影を偲ぶことができる場所を歩いています。前回は、京都守護職松平容保の生誕の地、新宿区荒木町の高須藩上屋敷跡を歩きました(「戊辰戦争150年 松平容保生誕の地を訪ねる」参照)。今回は、そこからほど近い、江戸と甲州街道の玄関口「四谷大木戸」を通り、内藤新宿、そして京都守護職お預かり新選組一番組長副長助勤「沖田総司」終焉の地を訪ねます。
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四谷大木戸
丸ノ内線四谷三丁目駅近くの荒木町高須藩上屋敷跡から再び四谷三丁目駅方面に戻ります。新宿通り(国道20号)を新宿方面に進むと、四谷4丁目交差点に出ます。ここには、江戸時代に甲州街道から江戸に入る大木戸(関所のようなもの)があった場所です。天保5・7年(1834・6)刊の「江戸名所図会」にも掲載の江戸の名所のひとつでした。
大木戸は、元和二年(1616)に設置され、寛政4年(1792)に廃止されています。高い石垣と石畳が特徴的ですが、こちらについては、明治9年(1876)に交通の障害となることから撤去されました。江戸名所図会でも多くの人が行き会とても賑やかですが、現代も交通量が多く交通の要衝であることに変わりはありません。
交差点には、四谷大木戸の碑があります。ただこちらは、碑文のみで特に大木戸の遺構ではありません。150年の時の流れを感じます。江戸名所図会でみえるような建造物も跡形もなくなってしまうのですから…。そのため、現代に変わらずに残っているものを見つけるととても愛おしさを覚えてしまうのです。
四谷大木戸の碑は交差点を渡った反対側にもあります。その横にはひときわ目を引く「水道碑記」という大きな碑があります。
碑の上部の篆字は徳川家達(徳川宗家16代)によるものです。多摩川の羽村堰から取水された水は玉川上水により江戸の町まで届けられました。
四谷大木戸には「玉川上水水番所」があり、水質のチェックや水門の調節による流水量の管理などが行われていたそうです。
江戸市中には、ここから石桶・木桶といった水道管を地下に埋設して供給されたそうです。江戸のまちに水道管が敷き詰められていたことは、少し意外な感じがしますが誇れることですね。
承応2年(1653)に築かれた玉川上水の一部区間は、現代でも現役の水道施設として活用されています。
多武峯内藤神社
四谷大木戸の交差点を渡ると新宿御苑の緑が見えてきます。新宿御苑に入らずに、左側にそれるように御苑の側面を歩いていくと「多武峯(とうのみね)内藤神社」が右手にあります。
新宿御苑を含むこの一帯は、高遠藩内藤家の下屋敷があり、この神社も元は新宿御苑内にあったものだそうです。江戸初期に内藤家の初代内藤清成が屋敷内に家祖である藤原鎌足を祀り内藤神社を草創しました。
内藤家は、譜代とはいえ3万3千石の小大名であるにも関わらず、後に「新宿」と呼ばれる「内藤新宿」の名の由来ともなった広大な屋敷地を拝領しています。これには内藤清成の駿馬伝説があります。
徳川家康は江戸入府後に内藤清成を呼び、現代の新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの土地を与えよう」と言ったそうです。清成を乗せた駿馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り疲れ果てて死んでしまい、大樫の木の下に埋められました。後に大樫の大木の跡に「駿馬塚」が築かれたそうです。駿馬塚は現在多武峰内藤神社内に移されています。
新選組沖田総司終焉の地
慶応4年(1868)の正月3日からの鳥羽伏見の戦いの後、1月14日には新選組は横浜港まで帰り着きました。沖田総司の労咳もこの頃にはかなり深刻な状況でした。
3月1日に近藤勇らは甲陽鎮撫隊として甲府城に向かいます。この隊に沖田総司は従軍した(病重くすぐに江戸へ戻る)とも、しなかったとも言われはっきりとはしていないようです。甲陽鎮撫隊は、多摩の近藤や土方の実家付近に立ち寄っているので、もしも従軍していたならこちらの信頼できる場所での治療がなされたのではないかなと思います。
その形跡がないところをみると、やはり従軍叶わず、江戸に留まった、もしくは出立後にすぐに従軍に耐えられずに戻ったのいずれかかと考えます。
その沖田が匿われ、療養したのちに亡くなった(5月30日)のが、植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷の離れと伝わっています。庭に現れる黒猫を斬ろうとして斬ることができず「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いたと小説で書かれている舞台です(このシーンは子母沢寛の創作であると言われています)。
植木屋平五郎の屋敷は、玉川上水の余水吐(渋谷川)の池尻橋付近にありました。
またまたアプリ「大江戸今昔めぐり」で確認しますと、池(玉藻池:内藤家庭園の当時とほぼ同じ状況)の右に内藤神社があり、その下の現代という表示の少し上に「植木屋」という記載があります。こちらが、植木屋平五郎の屋敷です。
諸説あるものの、新選組一番組長沖田総司は、こちらで亡くなったと伝わっています。新選組の主治医とも言える松本良順が今戸神社(台東区今戸)に寓居して患者の治療にあたっていたので、総司は松本良順宅で療養したともいわれています。ただ、松本良順宅で亡くなったのであれば、記録にしっかり残りそうではありますので、私は植木屋平五郎離れのほうが真実に近いのように思います。
前回ご紹介した、松平容保誕生の地と離れていないところに、会津藩お預かり「新選組」の一番組長沖田総司の亡くなったとされる場所があるところから、四谷・新宿も隠れた幕末新選組スポットであるかもしれません。150年前の幕末を偲びながら歩くにはとても良い場所です。
私は今回、新宿御苑が休園日と知らずに行き、新宿御苑の美しい大名庭園跡を見れなかったのがとても残念なので、また機会があれば訪れてみたいと思います。(2018年1月3日訪問)