江戸時代、武士の時代の終焉から150年。今年は江戸の名残を探して歩く機会が増えています。寺社仏閣は、当時の建築物がそのままということが多々あるのですが、武家屋敷、とりわけ大名屋敷などは、幕府拝領地の新政府による召し上げ、市街化や関東大震災、空襲、建物の老朽化、相続税などの理由によりその多くが消滅しています。そんな中、移築などにより消失を免れ、現代に当時の様子を伝えるものが僅かながら存在します。今回は、阿波徳島藩25万7千石蜂須賀氏の中屋敷の門が移築されている西澄寺(世田谷区下馬)を訪ねました。
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蜂須賀氏と戊辰戦争
今年は、戊辰戦争150年ということで、今回の紹介する蜂須賀家武家屋敷門の主である蜂須賀氏の150年前を振り返りたいと思います。戊辰戦争の緒戦「鳥羽伏見の戦い」は慶応4年1月3日から6日(1868年1月27日から30日)の4日間でしたが、蜂須賀氏も大変でした。
なぜなら、1月6日(1868年1月30日)に藩主蜂須賀斉裕が48歳の若さで急死したのです。(余談ですが、こちらの記事を書いているのは2018年1月30日なので、ちょうど150年前の出来事になります)
斉裕は、11代将軍徳川家斉の二十二男で、短期間ではあるものの幕府の陸軍総裁に任命されたり、軍制をイギリス式に改めて海防に力を注ぐなど幕府からは期待されていた人材でした。よりにもよって幕府の命運を分けるタイミングでの急死。幕府方にはかなりの痛手となりました。
そんな阿波徳島藩も鳥羽伏見の戦い後は、時の流れでしょうか‥新政府軍として奥羽に兵を送るなど、戊辰戦争を戦うこととなります。藩の存続のためにはやむを得ない判断だったのでしょう。
阿波徳島藩中屋敷
まずは、いつものようにアプリ「大江戸今昔めぐり」で中屋敷の位置を確認したいと思います。
現在の港区芝5丁目に阿波徳島藩(徳島)松平阿波守斉裕[蜂須賀]二十五万七千九百石余と記された場所を見つけることができました。
「大江戸今昔めぐり」では、現在地図に加えて航空写真で現在の様子がわかるのですが、中屋敷跡はすっかり分割されて住宅地のような感じでおそらく現地にいっても当時を偲ぶものをないのではないかなと思います。
中屋敷の門は移築されたからこそ、現代まで保存され、二五万石の格式を現代に伝える貴重な文化財となっています。
ちなみに大名屋敷には上屋敷・中屋敷・下屋敷・蔵屋敷などがありますが、上屋敷と中屋敷は幕府から賜るもので藩主は上屋敷、中屋敷には世子(若殿)やその家族が住んでいることが一般的だったようです。
蜂須賀家中屋敷門
中屋敷門が移築され、山門として転用されている西澄寺(世田谷区下馬2-11-16)は真言宗の属す京都智積院の末寺で、「日輪山薬王寺」の号する由緒あるお寺です。大正11年に本堂の新築を行っており、山門として大正12年の関東大震災で焼け残った港区芝の旧蜂須賀家の門を買い受けて数年がかりで移築したと伝わっています。
現在の港区芝五丁目にあった阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を、大正末頃に西澄寺に移築したと伝わり、山門として転用されています。切妻造で、桁行六間の、中央に二間の両開きの潜戸と板壁を設けます。門の両端には、切妻造で桁行二間、梁間三間の出番所が配されます。六畳の番所には、表側には格子窓と、門内に面した側には式台が構えられています。この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、幕府は貞享年間(1648-88)に、大名の家禄高を基準に家格を加味して、その形式・構造を定めています。蜂須賀家の中屋敷門として、二五万石の大大名の家禄と家格に応じて建築されたものと考えられます。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして、貴重なものです。(東京都教育委員会)
鉄鋲や、門の装飾など、無骨な武家屋敷門の力強さを感じます。ぜひ現地でこの風格を実感していただきたいです!とても間近に見られます。3回くらいくぐってしまいました。こちらの門は、東京都指定有形文化財(建築物)武家屋敷門として昭和39年4月28日に指定されています。
二条城の遺構
西澄寺で武家屋敷門を見たあとに併せて訪れたいのが、世田谷観音寺です。
創建は昭和26年と新しいお寺なのですが、この寺の建物、仏像、寺宝などはそれぞれ由緒あるものが集められています。六角堂に祀られている不動明王と八大童子は国の重要文化財に指定されています。
歴史ファンとしてぜひ見ておきたいのが、二条城の遺構と伝わる建物です。
京都の二条城より移築されたもので、三層の建物は金閣寺を模したものといわれています。(世田谷観音HPより)
この建物は、新潟の石油王中野貫一の屋敷にあったものが移築されたものだそうです。また、本坊も旧小田原藩代官屋敷の建物を移築したものだそうです。歴史好きとしてはぜひ訪ねてみたいスポットかと思います。
駒繋神社
そしてご近所の歴史スポットをもう一箇所。源氏にゆかりのある神社です。この神社は昔は子(ね)の神と呼ばれ、源義家が奥州安部氏討伐に向かう途中にこの子(ね)の神に祈願したと伝わっています。
さらに源頼朝が奥州藤原氏討伐の際にも祈願し、その際に頼朝が芦毛の愛馬を境内の松に繋いだと言われています。現在の「駒繋の松」はその三代目になるそうです。
このあたりは、駒沢、下馬、上馬などと馬に関係する地名が多くあります。一説には頼朝が沼に馬の脚が取られそうになったために下馬(げば)したのが下馬(しもうま)で、ふたたび乗馬したのが上馬(かみうま)とも言われています。
いろいろな歴史スポットを短時間にいっぺんにみることができる世田谷区下馬。田園都市線三軒茶屋駅からも徒歩で行けるところです。ぜひ実際に訪れて歴史に思いを馳せてみられたらいかがでしょうか?