【続日本100名城】太田道灌になりきって小机城へ行こう!

投稿者: | 2018年2月5日

今回は、平成29年に続日本100名城に選出された中世の城郭「小机城址」を訪問しました。以前にも訪れたことがあるのですが、石垣や天守閣などの一般的なイメージの城ではなく、中世の実際の合戦仕様のお城の良さを教えてくれるおすすめの城跡です。この城は太田道灌が攻め落としたことで有名です。そこで今回は少し道灌になったつもりで城に挑みます。(2018年1月30日訪問)

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いざ小机城へ

小机城は、日産スタジアムの最寄り駅として知られるJR横浜線の「小机駅」から10分くらいのところにあります。日産スタジアムへ行くのと同じ方向の出口をでます。駅内にも「続日本100名城」のパネルや案内が整備されつつあり、「小机城址市民の森」を示す看板や矢印もあるので、あまり迷うことなく行けるかと思います。

小机城は、永享の乱(1438-1439 鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立)の頃に関東管領上杉氏により築城されたとされていますが詳しくはわかっていません。鶴見川を天然の堀として築かれている平山城で、武将視線で城に近づくと一見攻めやすそうなのですが、城山の麓まで来るとかなりの堅城であったことが実感できます。

小机城近影

城跡としては、史跡指定等はされていないのですが、JR横浜線や第三京浜により損なわれた部分を除いては、かなり中世の様子が遺されていて、500年ほど前の様子がとてもイメージしやすい城跡です。

太田道灌の小机城攻め

扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌は、文明10年(1478)に長尾景春に味方して小机城に立て籠った豊嶋氏に対して攻城戦を挑みます。小机城は、後北条氏の滅亡までこの地域の重要拠点として機能し、現在の遺構もその多くが後北条氏の時代のものと推定されています。

小机城空堀

二の丸跡から

道灌は、鶴見川を挟んで対岸の「亀の甲山」に陣をはります。小机城からは、約1キロくらいの距離でしょうか。徒歩で概ね30分くらいでしたが、現代の道路でなく、最短距離であれば15分くらいで行けるようにも思います。

亀の甲橋から小机城望む

道灌の気持ちになり切るために、亀の甲山の陣城あとにも登ってみました。こちらは工業団地となっていて、遺構はほとんどわかりません。ただ、一番高いところからは小机城がよく望めて、小机城を攻めるならここに陣を張るであろうことがよくわかります。亀の甲山は、小机城から望むとまさに亀の甲羅のように見えます。だから亀の甲山なのでしょうね。

亀の甲山陣城付近

小机城の攻城にあたって、道灌は、以下のように唄を歌い味方を鼓舞しました。

太田道灌

資長(道灌)、小作城(小机城)を攻めし時、敵衆く(敵多く)味方寡し(少なし)、家臣小を以て大に勝つことは如何あるべしと言いければ、資長、善く兵を用いるものは兵の多少に寄らず、勢に乗ずるものなり、我歌を唱ふるの聲(声)に應じ何れも和唱し進み戰ふべしと令しける。士卒乃ち其歌を唱ふると均く、進み戰ひ、遂に其城を抜けり。その其歌に曰く「小作は、まづ手習の、始にて、いろはにほへと、ちりぢりになる。」(名将言行録)

亀の甲山の陣から、小机城を正面から攻めるためには、鶴見川を渡り、そしておそらく当時は田園(今は畑が多い)などの平地を進むことになります。小机城からも道灌勢の動きは容易に察知しやすく、城方よりも寡兵であれば攻城は難航することが想像できます。

道灌がどのように城を落としたのか具体はよくわかっていませんが、小机城からみて亀の甲山と反対側の羽沢というところに、道灌がいろはにほへとの歌を詠んだとされる「太田道灌の硯松」という松(現在4代目)があり、もしもその方向から攻めたということであれば、城方の意表をつく急襲で勝利したのかもしれません。

攻城戦は2ヶ月ほどであったそうです。攻守ともに慣れが生じた頃であればなおさら城方は驚いたのかもしれませんね。

「硯松」もぜひ見てみたいと思っていたのですが、冬の日暮れは早くて今回は行けませんでした。道灌になりきるためには、硯松の下で「いろはにほへとちりぢりになる」を歌ってみたかったです。残念でした。

その後の小机城

小机城は、前述のとおり後北条氏の「小机衆」重要な拠点となり、重臣の笠原氏や、北条氏堯(北条氏綱の四男)、北条氏光(北条氏康八男または九男)など一族が城主となっています。天正18年(1590)の小田原征伐では、籠城体制が整わずに開城したと伝えられています。

江戸時代には廃城となり、そのために戦国の城の様子を知るにはとても良い城跡です。これからも、あまり手をつけずに、できるだけそのままの姿を伝えて行って欲しいと思います。

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