【戊辰戦争150年】幕末「遊撃隊」の箱根戊辰戦争 (人見勝太郎 伊庭八郎 林忠崇)

投稿者: | 2018年2月12日

今年は戊辰戦争150年にあたります。江戸幕府が開かれてから260年あまり、先祖代々仕えてきた徳川家の存亡の危機に命を惜しまずに時代の波に抗した男たちがいました。かれらは徳川親藩の尾張徳川家や譜代の彦根藩井伊家までもが官軍として矢を向けることを座してみていることはできませんでした。

尾州は徳川氏の末家にして兵を出し、其の宗家を討んとし、彦根の如きは臣下にして出兵し、其の君を討んとす。人倫を壊り、王政維新の聖旨にも背く者たり。微臣等徳川宗家の者にして、臣下の情、傍観座視するに耐えず。成敗を顧みず挙兵、尾彦の罪を問わんとす、請ふ同盟せられん事を。(「遊撃隊檄文」)

彼らは「遊撃隊」を組織し、箱根で戦います。そしてその後の戊辰戦争を戦います。箱根戊辰戦争の概要とともに遊撃隊の主要な3名、義を貫いたことでファンも多い「人見勝太郎・伊庭八郎・林忠崇」について、おすすめの書籍などをご案内します。

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遊撃隊とは

慶応2年(1866)10月、講武所師範や奥詰め幕臣らによる銃撃隊の再編成によって「遊撃隊」は結成された幕府軍の一隊です。伊庭八郎はこのときに、そして人見勝太郎は慶応3年12月(1867)に加入しています。

慶応4年(1868)1月3-6日の鳥羽伏見の戦いの後、江戸に戻った徳川慶喜は2月11日に新政府へ恭順の意を示し、翌12日には上野寛永寺に蟄居します。

それを受けて旧幕府の首脳も幕臣の慰撫に努めますが、これを良しとしない幕臣の一部は「薩賊」の討滅を掲げて彰義隊の結成し対抗することになります。

遊撃隊のなかには、彰義隊に参加するものもいましたが、伊庭八郎と人見勝太郎ら(34人~36人)は、榎本艦隊の支援を受けて、別の行動をとることになります。

人見勝太郎や伊庭八郎らは、「徳川の後家再興を基本」として、新政府への徹底抗戦を誓い、徳川恩顧の諸侯に助力を求めます。いち早くこれに応じたのが上総国請西藩の藩主・林忠崇でした。忠崇は請西藩を藩主自ら脱藩し、約70名の藩士を従えて遊撃隊に加わります。

林忠崇

箱根戊辰戦争

上方から関東への兵を防ぐには、古来「箱根の險の地の利を活かす」という考えがありました。小栗上野介が徹底抗戦を叫んだ時も、「新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する」という戦略を持っていました。

人見らは、小田原藩や韮山代官所の助力を得て、箱根に武威を張り、東海道の諸侯を味方につけて徳川に弓を引いた尾張・紀州・彦根を討つことを基本方針としています。

頼みにした小田原藩は、新政府への恭順と佐幕との間で揺れ動きます。藩主大久保忠礼は、徳川斉昭の兄の子であり、慶喜の従兄弟にあたります。慶喜が恭順しているのに関わらず、新政府に敵対することができない、しかし、そうは言っても幕府への恩顧もあり揺れ動いたのです。

そうこうするうちに彰義隊が慶応4年(1868)5月15日に上野戦争で壊滅します。こうなる小田原藩は自藩を守るために遊撃隊を討伐することで身の証をたてようとしました。遊撃隊と小田原藩は戦闘状態となりました。

箱根湯本の三枚橋付近での戦いでは、伊庭八郎が小田原藩士・高橋藤五郎(鏡心一刀流)に左手首の皮一枚を残して斬られ、左腕の途中から先を切断。以後、左手は不自由となります。

伊庭八郎の活躍

伊庭八郎は、幕末江戸四大道場に数えられる「練武館」の心形刀流宗家の出身で、簡単に斬られる腕ではありません。腰に銃弾を受けたところに隙がうまれて左手首を斬られ、それでも右手でその敵を討ち、三枚橋を確保したと伝わっています。

この戦いには敗れましたが、この後人見と伊庭は函館まで新政府軍と戦い抜くことになります。

今回は、ダイジェストというような形で遊撃隊と箱根戊辰戦争について書きましたが、以下の書籍を参考にさせていただきました。人見勝太郎・伊庭八郎・林忠崇に共通するのが筆まめというところでしょうか。そのおかげで当時のいろいろなことを知ることができます。

以下の書籍では、それらを詳しく、そして噛み砕いて教えてもらうことができます。

林忠崇

脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯

本当に思い切ったことをする人で、行動力も大名育ちとは思えません。忠崇は、昭和16年に満92歳没で亡くなります。これをもって、諸侯として江戸城に登城していた大名はすべて亡くなりました。唯一の脱藩大名は最後の大名でもあるのです。

戊辰の戦火は間近に迫っていた。徳川三百年の恩顧に報いるに、今をおいて時なし―佐幕一途の志に燃えて上総請西藩主の座を捨てた若き林忠崇は、旧幕臣の集う遊撃隊に参加し、人見勝太郎、伊庭八郎らの同志を得る。箱根、小田原で東上する官軍と激突。その後も奥州各地を転戦して抵抗を続けた。戦乱に死すべき命を長らえた忠崇は、官史、商家の番頭、神主など職を転々とし、昭和十六年、九十四年の生涯を閉じた。(「BOOK」データベースより)

人見勝太郎

幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎

旧幕府脱走軍を統率し、軍略をめぐらせ鳥羽・伏見の戦いから五稜郭の戦いを駆け抜けた人見勝太郎。「好し五稜郭下の苔と作らん」―殉じる覚悟で戦いに挑むも、生き残った人見は身のくすぶる思いを勝海舟や西郷隆盛ら薩摩藩士との交流のなかで昇華してゆく。明治新政府下では、殖産に努め、茨城県令として活躍。退官後は、実業家として成功を収めた。かれの思いとその破天荒な生涯に迫る、書き下ろしノンフィクション。(「BOOK」データベースより)

伊庭八郎

幕末武士の京都グルメ日記

あの伊庭八郎のちがった側面を知ることができます。これだけ読むとグルメ大好きの普通の青年といった印象です。数年後のあの活躍とのギャップがすごいですが、人柄がわかることで伊庭八郎のことがもっと好きに、そして身近になるかもしれません。

隻腕ながら遊撃隊長として榎本武揚とともに戦い、二十六歳にして五稜郭で散った伊庭八郎。死の五年前の一八六四年、伊庭が将軍・家茂の京都上洛に帯同した際に記した日記がある。その「征西日記」には、勇ましいタイトルとは裏腹に、伊庭が呑気に京都を食べ歩く日常が綴られている。ある日はうなぎに舌鼓を打ち、ある日は赤貝を食べ過ぎて寝込んでしまう―。本書では初めてその全文を現代語訳し、当時の政情・文化に照らし合わせ、詳細な解説を加えた。殺伐とした幕末京都を訪れた幕臣のリアルな日常が実感できる、稀有なる一冊である。(「BOOK」データベースより)

ある幕臣の戊辰戦争 – 剣士伊庭八郎の生涯

名門・伊庭道場の嫡男に生まれた八郎は、卓越した剣の腕を買われ、将軍家茂の親衛隊に加わる。だが戦乱は間近に迫っていた。八郎は新設された遊撃隊に属し、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに各地を転戦。東下する新政府軍を迎え撃った箱根の戦闘では左手首を失う不運に見舞われる。のち蝦夷地で旧幕府軍に合流し、死の間際まで抗戦を続けた。天才剣士を戦いへ駆り立てた思いとは何だったのか。二十六年の短くも鮮烈な生涯を描く。(「BOOK」データベースより)

小説で楽しむなら

幕末遊撃隊

心形刀流・伊庭道場の後つぎ伊庭八郎。ある理由から剣ひとすじに生きると決め、精進を重ねてきた腕は、不羈の才と評判をとっていた。動乱騒擾の絶え間ない幕末を迎え、八郎は将軍上洛に伴って京へ。幕府の崩壊を目の当たりにし、江戸っ子侍気質そのまま、同士を募って遊撃隊を組織し、怒涛の進撃を続ける官軍に挑む。武士の矜恃を胸に、短く壮烈に生きた美剣士の意気地を雄渾に描く青春幕末秘伝。(「BOOK」データベースより)

伊庭八郎 凍土に奔る

心形刀流宗家に生まれ、「小天狗」と呼ばれた伊庭八郎。遊撃隊の一員として鳥羽・伏見の戦いに参加するが、近代兵器を駆使する新政府軍を前に唇を噛む。箱根山崎の戦いで左腕を失いながらも、八郎は盟友土方歳三の待つ北へと向かう。幕末から維新、激動の時代に最後まで幕臣として生きることを望み、蝦夷箱館の地に散った若き剣士の苛烈な生涯を鮮やかな筆致で描く。(「BOOK」データベースより)

最後まで幕府に尽くした隊というと新選組が有名ですが、遊撃隊の活躍も見逃せません。これから、もう少しテレビドラマや時代劇で描かれたら嬉しく思います。

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