【名家のその後】伊勢宗瑞の小田原城攻めと追われた大森氏のその後

投稿者: | 2018年2月17日

明応4年(1495)に伊勢宗瑞北条早雲)が大森氏が拠る小田原城を落とし、その後の約100年に渡る後北条氏の相模国、そして関東支配の礎を築きました。この記事を書いているのは2月16日なのですが、この小田原攻めも一説には2月16日であったとされています(小田原攻めの年や日にちには諸説あります)。そこで今回は、この小田原攻めと追われてしまった大森氏のその後を「北条記」「名将言行録」等の軍記物からご紹介します。

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伊勢宗瑞の小田原攻め

駿河国の興国寺城から伊豆の堀越公方茶々丸を攻め、伊豆の支配を固めようとしていた宗瑞の目には両上杉(山内・扇谷)が反目して治まらない相模が隙だらけに映ったのでしょう。両家の不和で上杉は自滅するに違いないと考えるようになります。

小田原は、扇谷上杉の重臣大森式部少輔氏頼が治めていました。関東に進出するためには、箱根、そして小田原を手中にしたい宗瑞は、「まず大森と和睦し、親交を深くし、その後謀(はかりごと)を以て討つべし」という方針をたてて、大森氏に和睦の使者を送ります。

式部少輔氏頼は、「理由なく和睦を講ずる者には、必ず謀があるものだ」として、なかなか宗瑞の手に乗ってきません。それでも互いに使いを送り合うなど緊張は随分と緩和されました。

しかし、明応3年(1494)8月26日に氏頼が亡くなり、子の藤頼が後を継ぐと宗瑞はますます親交を深めようとします。藤頼も父が亡くなり心細いところもあったのでしょうか、親しくしてくれる宗瑞に少しずつ心を開いていきます。

そして、ついには「互いにだれかに攻められたら、援軍を送り合いましょう」というほど心を開く関係になりました。これが宗瑞のはかりごととは藤頼は気がつきません。

ある日宗瑞からいつものように使者が来て言いました。「先日伊豆で鹿狩りをしたところ、多くの鹿が箱根に逃げてしまいました。そこで、箱根に勢子を入れて伊豆に戻したいと思います。お許し下さい」と。藤頼はとても人の良い人だったのでしょう。謀ともも知らずに「容易きことです。」とこれを許してしまいました。

宗瑞は、明応4年2月16日、屈強の者数百人を勢子にし、物馴れたる者数百人に犬を引かせ、さらに数十頭の牛の角に松明をつけて突然小田原を夜襲します。

このとき小田原城には両上杉の合戦へ多くの兵が出ていてかなり手薄な状況でした。山々の松明を見て、何万の軍勢か!?と狼狽します。藤頼をはじめとして我先に城を落ち、宗瑞の目論見通りに城を手にしたのでした。

以上は、通説である宗瑞の明応4年小田原奪取説と時期は同じになりますが、その翌年の明応5年のものとされる山内上杉家の上杉顕定の手紙には「大森氏を小田原城に攻めたが、早雲と三浦義同(道寸)の援軍に敗れた」との記載があり、明応5年以降に小田原奪取があったと考える説もあります。

宗瑞の謀略があったのか、軍記物の作者の創作なのか、今となっては分からないのですが、新たな史料の発見などで状況がわかってくると歴史がより楽しますね。

北条早雲

その後の大森氏

藤頼は、同じ扇谷上杉氏の重臣の三浦義同(道寸)の支援を受けて大住郡実田城(真田城、現在の神奈川県平塚市)に逃れて戦い、明応7年(1498)に敗れて自害したいわれています。

これをもって相模名族大森氏が滅亡したかというとそうではありません。大森氏の末裔が後北条氏に仕え、その後徳川家に仕えて寄合旗本として続きました。

大森家

4,500石
武蔵国埼玉郡、下総国香取郡、常陸国茨城郡、下野国芳賀郡内
相模国旧族。佐久間勝之の養子となっていた頼照が関ヶ原の戦いの戦功により徳川氏へ帰参し、旧姓に復す。2代・大森頼直は徳川家綱の傅役を勤めた。

出典: ja.wikipedia.org

大森頼照は、(先に紹介した)式部少輔氏頼-実頼-泰頼-泰次-泰定-頼照と続いた大森氏の系統だそうです。

戦国時代の幕開け期に国人大名としては早々に退場した大森氏が、仇敵である後北条氏に仕えるなどして家名と血脈を戦国期も受け継ぎ、江戸時代に大身の旗本として存続するところに一族のロマンを感じます。あれ!?この大名滅びたと思ったら結構栄えている!を見つけたらまた紹介したいと思います。

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