慶応4年(1868)3月14日、江戸では西郷と勝の会談により江戸城の明け渡しが決定されました。同日に発せられたのが「五箇条の御誓文」です。
これだけしっかりとした大方針が戊辰戦争中にすでに発せられていたことに驚きますが、調べていてさらに驚いたのが、横井小楠が文久2年(1862)に「国是七条」という形で草案ともいえる考えを示していたことを知った時でした。
慶応3年(1867)6月には、坂本龍馬が「船中八策」、11月には「新政府綱領八策」を起草しています。この八策には、小楠の考え(国是七条)と共通する部分が多く、影響を受けていたことがわかります。
その後、慶応4年(1868)1月に由利公正が「議事之体大意」にて案とし、福岡孝弟の「会盟」、木戸孝允「誓」へと修正が加えられて最終的には、明治天皇が天地神明に誓われたのが下記の御誓文です。由利公正は、横井の指導を受けて影響を色濃く受けていますし、坂本龍馬とも考えを同じくする友でした。
勝海舟や吉田松陰とも交流を持っていた横井小楠。様々な人物に影響を与え、日本の基礎を起案した小楠についてもっともっと知りたくなりました。
五箇条の御誓文