【新発見】秀吉の書状2通 いずれも播磨の国人「間嶋兵衛尉」あて

投稿者: | 2018年3月31日

2018年3月、秀吉の書状が2通新たに見つかりました。最近は数ヶ月に一度くらい秀吉の新たな書状が発見されているように思います。特に「本能寺の変」の前後あたりのものがとても多いように感じています。まだまだ官僚組織がというより、秀吉自らがなんでもこなしている時期だったのかもしれません。

今回、驚きなのは、2通の書状の送り先が「間嶋兵衛尉」という同じ武士あてだったことです。同じところから2通でてきたのでなく、1通は、インターネットオークションで出ていたのもを研究者が落札したもの、もう1通は、愛媛県の旧家から発見されたものなのです。

私も、ニュースで2通目の書状のことを目にしたときには、あれ10日くらい前のニュースがまた再掲されたのかな?と思ってしまいました。宛名も同じですし…。いずれも東京大史料編纂所の村井祐樹准教授が関係しているので、発表の時期が重なったのかもしれません。

そこで今回は、2通の書状のと、「間嶋兵衛尉」という武士のことを少し調べてみました。

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①天正5年(1577年)12月26日の書状

こちらが、読売新聞(2018年3月16日)で報道された書状です。天正5年というと、織田家の勢力が播磨に伸び、5月には、小寺政職も織田方へと旗幟を鮮明にするなど播磨国人の多くがなびいていた時期となります。10月には秀吉自らが播磨に入っています。そんな最中の12月に「間嶋兵衛尉」あてに書かれたの今回の書状です。

信長は天正3年から播磨攻略を進めており、後に秀吉の家臣となる播磨の黒田官兵衛らが信長の軍門に下っていた。間嶋は秀吉の調略に応じたが、ほかの武士たちが既に「上様(信長)」のもとを訪れ、「御礼(服属のあいさつ)」を済ませたのに、間嶋だけがまだ来ないと指摘し、近日中に信長が上洛する際にあいさつするようせかしている。(読売新聞より引用)

間嶋氏は、播磨の国の国人領主で、赤松氏の支流だそうです。他の国人と同様に織田方についていたものの、織田信長へのあいさつが遅れていたことを秀吉から指摘されている内容です。おそらく、この後すぐに上京して挨拶を済ませたのではないかと想像します。

②天正8年(1580年)9月1日の書状

秀吉の「宛行状」、旧家で発見 国人領主「間嶋兵衛尉」へ 2018年3月31日 愛媛新聞

天正5年の書状から3年ほどの月日が過ぎています。この間の播磨の国は戦国の荒波に揉まれて大変なときでした。それは播磨の盟主とされる別所氏の織田からの離反です。天正6年3月から天正8年1月までの別所氏と織田氏による三木合戦で「間嶋兵衛尉」はおそらく織田方に残りそれなりの働きをしたのでしょう。2千石の所領を9月に安堵するお墨付きをいただくことができたことがこの書状でわかります。

書状は1580(天正8)年9月1日付で、播磨(兵庫県)の国人領主に発給した土地所有権を認める「知行宛行(あてがい)状」。調査した内田会長や東京大史料編纂(さん)所の村井祐樹准教授は「保存状態がよく、秀吉の花押とはっきり分かる」と評価している。 宛名は、軍記物などでしか存在が確認されていなかった間嶋兵衛尉(まじま・ひょうえのじょう)という人物で、2千石を与えるとしている。

出典: www.ehime-np.co.jp

一説によると、兵衛尉の父は別所方につき、家名を保つようにしたとも言われています。真田氏と同じで、小勢力の生き残りのための知恵ですね。

その後の間嶋兵衛尉

兵衛尉はその後、秀吉の家臣として賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、九州征伐、小田原合戦などに参戦し、こつこつと実績を伸ばし、淡路岩屋城主にもなっています。しかし、この淡路岩屋の所領は、その後加藤嘉明に与えられていたりするらしく、間嶋氏がそのときにどのような扱いを受けたかは不明です。一説には、関ヶ原の戦いで西軍について滅亡し、播磨の国人時代からの誼で黒田勘兵衛を頼ったとも言われています。

今回の書状2通目は、加藤嘉明が治めた伊予(愛媛県)の旧家から発見されています。間嶋氏の治めた地を引継いた加藤嘉明ゆかりの地で見つかったということは、間嶋氏に関係する人が加藤氏に仕えたということもあるのかもしれません。

こういった書状が次々に発見され、その度にいろいろ楽しく想像できるのが歴史の醍醐味のように思います。研究者の方に感謝しつつ、新たな発見に期待したいと思います!

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