江戸の終わりから150年、江戸の面影を探してのまち歩きを楽しんでいます。今回は後に結成される新撰組の幹部たちが剣の修行に汗を流した青春の地、天然理心流「試衛館」跡を訪ねました(2018年4月27日訪問)。
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試衛館について
試衛館は、天保10年(1839)に近藤勇の養父近藤周助(天然理心流3代目)が創設し、近藤勇が文久元年(1861)に跡を継ぎ、勇の上洛後も佐藤彦五郎らが留守を預かり慶応3年(1867)まで開かれていました。
試衛館には、「朝から五、六十人の門弟が出つ入りつ、遠近に竹刀の音を絶えない(永倉新八回想)」状況だったそうです。
また、同じく永倉新八の遺した「浪士文久報国記事」では以下のように記載があります。
此時市ケ谷加賀屋敷柳町二罷在ル近藤勇、剣術導場ヲ開キ日々稽古盛リ、稽古終テ稽古人集リ各々議論国事ヲ愁ル、其連中左二記ス
近藤勇始メ 山南敬助 土方歳三 沖田総司 永倉新八 佐藤彦五郎 大月銀蔵 斎藤一 藤堂平助 井上源三郎 佐藤房二郎 中邨太吉 沖田林太郎 (浪士文久報国記事)
稽古が終わった後には、尊王のこと、攘夷のことなど、まさに幕末の風雲急を告げる状況のなかで若者たちは国を憂い議論を重ねたのでしょう。
さらに永倉はこう回想しています。
塾頭は沖田総司という人で、後年に名を胎した剣道の達人、その他、山南敬助、土方歳三、原田佐之助、藤堂平助、井上源三郎など、鉄中の錚々たる連中が豪傑面を並べて頑張り、武骨が過ぎて殺気漲るばかり。(永倉新八回想)
「武骨が過ぎて殺気漲るばかり」というほどの道場ですから、腕に覚えのある他流派からも多くの者が集まったのでしょうね。意外と近い距離に、江戸三大道場の一つ「技の千葉」と称された北辰一刀流「玄武館」があります。山南、藤堂ら北辰一刀流を学んだ者をも惹きつける魅力(近藤個人の魅力?)が試衛館にはあったのでしょう。
試衛館跡地を訪ねる
試衛館は江戸市谷甲良屋敷(現在の東京都新宿区市谷柳町25番地)にあったと推定されています。永倉は「市ケ谷加賀屋敷柳町」や「小石川小日向柳町坂上」というように記して(回想して)います。
市谷柳町には、都営大江戸線の牛込柳町駅が最寄になります。こちらで下車して、東方向に歩きます。今回もアプリ「大江戸今昔めぐり」を利用して迷うことなく進みます。
永倉新八が柳町坂上と記している坂は、おそらくは、切絵図の「焼餅坂(市ケ谷甲良屋敷の上)」のことではないでしょうか。なんだか由来を調べたくなる坂道ですね。
甲良屋敷は、日光東照宮や江戸城修復を行った大棟梁甲良氏が賃貸していた土地の名称だそうです。私ははじめ、甲良屋敷の下にある「近藤」が試衛館ではないかと思ったのですが、別の切絵図で「近藤辰之助」とあったのでやはり甲良屋敷が正しいようです。
地図で青点があるところに、新宿区が建てた説明表示があります。この説明表示のみで、横に小さな社があるものの当時を偲ぶものは何もありません。
ただ、150年ほど前に、ここに竹刀の音が鳴り響き、沖田の門弟を指導する声、近藤の裂帛の気合が響いていたと思うと新撰組ファンには格別な場所ではないでしょうか。
甲良屋敷周辺の道は、焼餅坂が大久保通りと若干変わっていますが、ほぼ江戸時代からの道です。周辺をまわり、近藤、沖田、土方らも同じ道を歩いたのだと暫し感傷に浸りました。ここが新撰組のある意味で生まれた場所なのだと思うといろいろな気持ちが湧いてきます。新撰組ファン、幕末ファンの方にはおすすめの場所だと思います。
そうそう、「焼餅坂」の由来がわかりました。坂の名称になるなんてとっても美味しい焼餅だったのでしょうね。だれかが焼餅を焼いたということではありませんでした(笑)。
本来の名前は赤根坂ですが、江戸時代より明治にかけてこの坂の途中に美味しい焼餅を売る店があったので、この名が付けられたと言います。江戸時代の「続江戸砂子」には、本名赤根坂 此所にやき餅ひさぐ店ありとあって、坂名の由来を知る事が出来ます。
出典: www.hutecc.jp
試衛館の皆さんも美味しい焼餅を食べたはずと(勝手に)思います。
試衛館跡への案内図
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