【幕末】学者のまちに剣術道場 北辰一刀流「玄武館跡」で幕末を想う

投稿者: | 2018年5月5日

江戸の終わりから150年。江戸の面影を探してのまち歩きを楽しんでいます。前回は、新撰組の母体ともいえる試衛館の跡地を訪ねました。今回は幕末江戸三大道場のうち「技の千葉」と称された神田於玉ヶ池北辰一刀流玄武館跡を訪ねます。

スポンサーリンク

神田於玉ヶ池

切絵図に神田於玉ヶ池とある千代田区岩本町は、都営新宿線の岩本町駅からすぐのところにあります。

神田於玉ヶ池 玄武館跡

江戸時代、於玉ヶ池の近くにあった茶屋にお玉さんという看板娘がいました。二人の男性がお玉さんを見染て、悩んだお玉さんは池に身を投じてしまいます。彼女の死を哀れに思った人々により亡骸は池のほとりに葬られ、以来この池は於玉ヶ池と呼ばれるようになったそうです。

ところが幕末の切絵図を見ても池らしきものはありません。幕末には池は神田山(駿河台)を削って埋め立てられ宅地化されていたようです。宅地化された於玉ヶ池は、歩いて15分ほどのところに湯島聖堂昌平黌があったためでしょうか、学者のまちとして発展していきます。

北辰一刀流玄武館

文政5年(1822)に、千葉周作が日本橋品川町に玄武館を設立し北辰一刀流と称しました。その後玄武館は、神田於玉ヶ池に移転します。

玄武館跡碑

玄武館には、天然理心流試衛館の近藤勇らを新撰組へと化学変化させた触媒ともいえる清河八郎、幕末の三舟のひとり山岡鉄舟、そして、のちに新撰組の幹部(壬生浪士組副長、新撰組総長)となる山南敬助藤堂平助らが学びます。

北辰一刀流には、千葉周作の弟千葉定吉が開いた「桶町千葉(小千葉)」がありました。坂本龍馬はこちらで学んだといわれています。龍馬の許嫁とされる千葉さな子は定吉の娘です。

玄武館の跡地を訪ねると、この地の再開発により一時的に撤去されていた石碑が小広場に再設置されていました。この小広場、まだ工事後の完了検査前なのでしょうか立ち入ることができず…写真は少し離れたところからになりました。

石碑には玄武館跡とともに東条一堂瑶池堂跡とあります。東条一堂は江戸後期の儒者で古注学を教え、海防論にも通じていて、老中阿部正弘の相談役にもなっていた人物だそうです。清河八郎は、東条一堂に師事し瑶池堂の塾頭を命ぜられるほどであったといいます。

また、この近くには佐久間象山の象山書院もあり、玄武館と門弟の数を競ったともいいます。

湯島聖堂

今回、神田於玉ヶ池周辺を歩いてみて感じたのは、湯島聖堂近くの学者のまちであった於玉ヶ池に、千葉周作の玄武館ができたことにより文武両道の士が多数輩出される豊かな土壌ができたのではないかということです。

剣術だけに秀でている、または学問のみができるではなく、両方を兼ね備えてこそ国のために役立つ人材となれると、幕末の志ある者は皆そう考えたのではないでしょうか。清河八郎が、江戸市中で唯一学問と剣術を一人で教える清河塾を開設したのもその思想の現れだと思います。

学者のまちに、剣術道場を作った千葉周作の意図がどこにあったのか今となっては図りかねるところもありますが、まさに国難を前にした時代の要請だったのだと思います。

玄武館跡への案内図



スポンサーリンク

【新撰組】隊士たちの青春の地 天然理心流 試衛館跡