【麒麟がくる】本能寺の変余話 松野一族(松野平助・主馬)の忠節

投稿者: | 2018年6月3日

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」ではどのような「本能寺の変」が描かれるのでしょうか。光秀は哀しみの感情で信長を討つのでしょうか…。それとも、野望に満ちた顔、怒りの表情かもしれません。原作のない書下ろしとなると、先がわからないので、毎週どうなるのだろうと期待と楽しみが増すように思います。今回は、大河ドラマでは恐らく描かれない本能寺の変に関係した織田家家臣の松野一族の義についてご紹介します。

松野平助の忠節

松野平助は、元々は西美濃三人衆安藤守就に仕えていました。安藤守就は、本能寺の2年前に突然信長により追放されます。信長は、平助の武勇と才知を惜しみ、平助に所領を与えて召し抱えました。平助がこれに感謝したのは言うまでもありません。

本能寺の変が起こった時、平助は遠方で報を聞いて戦場近くの妙顕寺にかけつけましたが、合戦には間に合いませんでした。平助のことを知った光秀の重臣斎藤利三は同じ美濃衆として知人であったこともあり、平助に使いを送り「何も心配はないので、早いうちに明智の殿に挨拶なさい。遠慮はいりません」と告げました。

しかし平助は、「過分の知行を頂戴しながら、大事のときに参陣できなかった。なおこの上明智殿に降って主君として仕え敬わねばならないのは無念である」と斎藤利三に手紙を書き置いて信長の後を追って自害したのです。

仕えてわずか2年でありましたが、安藤家が追放されたときに直接声をかけて召し抱えてくれた信長への恩義を平助は強く感じていたのでしょう。信長公記は「道義に比べれば命は軽い」というのはこのようなことを言うのだと評しています。

蛇足ではありますが、追放された安藤守就は、信長の死を聞いて挙兵しますが、数日でかつての同僚稲葉一鉄により討ち取られています。

松野主馬の義

本能寺の変から18年の月日がたち、関ヶ原の松尾山小早川秀秋の陣に松野主馬がいました。この主馬は、平助の弟の子、すなわち甥っ子にあたります。小早川勢が友軍であった西軍の大谷勢に襲い掛かろうとしたしたときに、この松野主馬だけは「今更東軍につくのは道義にあらず」無断撤退をしています。

松野主馬は、裏切らなかった男として評価され、関ヶ原後に田中吉政、徳川忠長らに仕えて関ヶ原から55年後の1655年に亡くなっています。このことから、おそらく関ヶ原のときには20代で、遡って本能寺のときには幼子であったのだろうと想像します。

幼い主馬に平助の弟(平八)は、きっと「おまえの叔父平助は、信長公の恩義をお返しするために追腹をした立派な人だったのだから、同じ一族として名に恥じる行いをするな」と話していたのではないでしょうか。

裏切りが動かした日本史上の大事件「本能寺の変」と「関ケ原の戦い」。ここで信義を尽くし、さわやかな風を吹かせた松野一族について、本能寺から436年後の6月2日に記し、紹介させていただきました。