【鎌倉物語】つつじ寺 佛行寺の「源太塚」と梶原景季 宇治川の先陣争い

投稿者: | 2018年6月10日

鎌倉には美しい庭園のあるお寺がたくさんありますが、その中でも最近知る人ぞ知る「つつじ」の美しい名所「佛行寺」に行ってきました。「つつじ」ももちろんなのですが、こちらには平家物語の宇治川の先陣争いで有名な梶原景季の塚「源太塚」があるとのことのため、前々からそちらも訪れたかったのです。(2018年4月29日訪問)

宇治川の先陣争い

寿永3年(1184)、木曽義仲追討のために源頼朝は、弟範頼と義経を京へ派遣します。出陣に際して、梶原景時の子景季は頼朝に名馬生食(いけづき)を所望します。しかし頼朝は、生食を与えず代わりに磨墨(するすみ)を与えます。しかし、後に頼朝が生食を佐々木高綱に与えたことを景季は知り、激しいライバル心を抱くことになりました。

いよいよ追討の軍勢は宇治川に至り、平等院の丑寅の方角にある、橘の小島が崎より、騎乗の2騎が競い合ってやってきました。1騎は梶原源太景季、もう1騎は佐々木四郎高綱です。人目にはなんとも見えないが、内心、先陣をきろうと思っていたので、梶原景季は佐々木高綱よりも1歩ばかり前を進みます。

高綱が、景季に呼びかけます。「この川は西国で一番の大河。馬の腹帯が緩んでいるようです。お締めになったほうがよかろう」と。

奥が景季

緩んだままで急流の大河を渡るのは落馬の危険もあります。景季が腹帯を締めなおしていると、高綱はすっと景季を追い越して生食を川に乗り入れました。それを見た景季は謀られたかと大急ぎでこちらも磨墨を乗り入れました

景季も高綱に呼びかけます。「佐々木殿、手柄を立てようとしての焦りは禁物。御覧なさい川の底に網が張ってあります」。高綱は、川底の網をことごとく太刀で切り馬を進めます。上図では、高綱が網を切っています。

高綱の生食は、川の流れに負けずに一直線で向こう岸へ。一方磨墨は徐々に押し流され下流で岸にあがることになりました。平家物語の名場面「宇治川の先陣争い」は、高綱が勝利し、先駆けの名乗りを果たしたのでした。

梶原氏の滅亡

景季は平家追討にも父景時とともに活躍します。特に一の谷の戦いでは、「梶原の二度駆け」と称賛される大ほどの活躍も果たします。景季は平重衡を捕える手柄も立てました。梶原氏は父子ともに頼朝の覚えめでたく重用されます。

そんな梶原氏は梶原景時が古くから「大悪人」と評されるように、不名誉な評価がなされています。平氏討伐での源義経の言動を頼朝に讒言し、陥れたとされることが致命的で「判官びいき」の人々からは「大悪人」と確定していまっているのです。

豊臣政権における石田三成。徳川幕府での本多父子と同様に主君から重用され尽くすほどに権力も集まり、自然とそれが権高な印象を与えてしまうのかもしれません。特に梶原景時は、頼朝の挙兵時の「石橋山の戦い」で「頼朝を自分が助けたから、鎌倉の今があるのだ、各々方の今あるのは自分のおかげ」という気持ちが他の御家人にも感じられるような振る舞いがあったのかもしれません。

景時がおそらく良かれと考えて主君に報告した事項は、他の者からは告げ口、讒言とみなされてしまうことも多くありました。武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」といわれた畠山重忠、結城朝光についての讒言などがより景時の印象を悪くしています。

ただし、このような記録は、後世に死人に口なしということで、誇張して記録され、すべての都合の悪いことは景時にという政権の意向が働いている可能性にも注意する必要があります。政権内で権力闘争に敗れたことで汚名を着せられた部分もぬぐえません。梶原景時の再評価も今後なされることでしょう。

いずれにしても、正治元年(1199年)正月の頼朝の死から1年も経たぬうちに、梶原景時は、御家人66名による連判状によって幕府から追放されます。播磨と美作の守護職も取り上げられ、鎌倉の屋敷も打ち壊された梶原の人々は失意のうちに所領である相模国一宮に退くことになりました。

もはや鎌倉近くに梶原氏の居場所はありません。梶原氏には、平家の追討以来京の都にもコネクションがあったのでしょうか。一族は、相模国を引き払い、上洛の途に着きます。その途中、駿河の国で、在地の豪族吉川氏や相模国の飯田家義らの襲撃を受け、戦いの後に景季を含めて討ち取られ、33名の首が路上に懸けられたといいます。

梶原源太景季

吉川氏との戦いは偶然に起こったとされますが、飯田家義もいるところをみると、鎌倉政権による上洛阻止と考えるのが妥当かもしれません。または、それと考えてしまった梶原氏から戦端を開いてしまった可能性もあります。

この吉川氏は、梶原氏追討の手柄により播磨国に所領を得ます。そして承久の乱でも活躍し、安芸の国の地頭となり、戦国期には、毛利氏の柱石となっていくのです。

吉川氏には、先祖伝来の「国宝 狐ヶ崎の太刀」が伝わっています。この太刀は、吉川氏が梶原景時の三男景茂を討ち取ったときに用いたものです。吉川資料館で期間を定めての展示が行われています。2018年は10月1日~11月30日に展示予定です。

源太塚

駿河で討ち取られた梶原源太景季。亡くなった証として、鎌倉に残っていた妻の信夫(しのぶ)の元に帰ってきたのが景季の片腕でした。この腕を葬ったのが、佛行寺の「源太塚」と伝わっています。信夫は夫の死を嘆き悲しみこの地で自害しました。源太塚の向かいの鎌倉山には、「しのぶ塚」があり、源太塚と互いに向き合っているそうです。仲の良い夫婦だったのでしょうね…。

梶原景季の塚

佛行寺のつつじ

佛行寺は「つつじ寺」としてこのシーズンは知る人ぞ知る人気スポットとなっています。鎌倉らしさのある美しい庭園ややぐらもあります。梶原景季を想いながら足を運ばれてみてはいかがでしょうか?

佛行寺のやぐら

周辺案内図