勝海舟が幕末から明治にかけて暮らした地「赤坂」を巡っていましたら、ちょうどお昼の時間が近づいてきました。今日は海舟づくしと決めていたので、このまま海舟ゆかりのうなぎの名店 寛政年間(1789~1800年)創業の浅草田原町の「鰻やっこ」に向かうことにしました。(2018年9月訪問)
江戸のうなぎ
幕末のうなぎ事情を確認するために、幕末(嘉永年間)に書かれた「近世風俗志」を開いてみると次のように「鰻屋」の記述がありました。近世風俗志は幕末の暮らしを知るうえで、とても参考になる幕末くらし百科事典とも言える書籍です。
鰻屋 古は、鰻蒲焼と云う名のあるは、鰻を筒ぎりにして串にさし焼きしなり。形蒲穂に似たる故の名なり。(中略)江戸は腹より裂きて中骨および首尾を去り、能きほどに斬りて小竹串を一斬れ二本づつ横に貫き、醤油に味醂酒を加え、これを付けて焼き、磁器の平皿をもってこれを出す。大小ともに串を異にし、一皿値二百文とす。必ず山椒を添へたり。(近世風俗志)
うなぎは当初は、ぶつ切りで串にさして焼いていたのですね。そうすると「蒲穂(ガマの穂)」に似ているのも、うなづけますね。
醤油と味醂のみで、砂糖を加えないのが江戸の蒲焼の特徴でもあるそうで、伝統のあるお店では現在も砂糖を用いないところもあります。銭一文を12円としますと、二百文は、2,400円になります。江戸のうなぎも、なかなか高価なお食事ということになりますね。
また、江戸は専ら鰻一種の店のみにて、他物を兼ねず、他魚を調せず。その名ある者、左に一、二戸を記す。各今世存在なり。神田深河屋 茅場町岡本 霊巌橋大黒屋 浮世小路大金 親父橋の大和田 両替町大和田 田所町和田平 神田明神前椎の木 広尾狐うなぎ 尾張町尾張屋 向両国すざき屋 浅草の奴こ 尾張町北川(近世風俗志)
近世風俗志にも記載のある浅草「鰻やっこ」は、勝海舟とジョン万次郎が連れ立って訪れていたと伝わっています。ふたりは咸臨丸での太平洋横断では、上司と部下で、船酔い(勝は曰く熱病)で指揮のとれない勝を英語が堪能で捕鯨等の経験豊かな万次郎が支えたという関係にありました。
浅草田原町「鰻やっこ」
海舟と万次郎が愛したうなぎを食べたいという思いと、朝から坂の多い「赤坂」を歩いておなかが空いていたこともあって半分小走りになりながら「鰻やっこ」へと向かいました。
お店では、ランチのうな重を注文します。うなぎが出てくる間に、メニューに目を通すと、「やっこの歴史」というページがあり、お店の由来や海舟・万次郎のことも載っていました。
創業は約200年前の寛政年間で、将軍家斉の治世だったそうです。お店自体は建て替えているものの、その当時から現在の田原町で営業を続けていて、江戸でも指折りの老舗ということになります。
また、近世風俗志と同じ幕末嘉永年間に発行された「江戸前大蒲焼番付」では、前頭筆頭に名のあることも紹介されていました。中央の大蒲焼の文字の左側4行目に「奴うなぎ」の記載があります。前頭筆頭なかなかの地位ですね。
そうこうするうちに、うな重がやってきました♪
お値段は2500円で、銭200文よりちょっと高くなっています。海舟や万次郎が愛した蒲焼をそれから100年以上も焼き続けていただいたことに感謝しながら美味しくいただきました。
万次郎はよく、鰻を残して包んで帰ったそうです。それは、貧しい人に分けてあげるためであったそうです。万次郎は、おごることなく謙虚な人で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、役人に咎められても続けていたと伝わっています。こういう素晴らしい人柄であったからこそ、幕末に様々な人物に影響を与えることができたのでしょうね。
海舟と万次郎に関するエピソードは、お店のWebにもありましたので、詳しくは、こちらをご覧いただけたらと思います。
浅草まで来たことで、海舟の生誕の地も近いことに気が付きました。今日は海舟づくしということで、そのまま生誕の地に向かうことにしました。