勝海舟が愛した赤坂をめぐり、そしてジョン万次郎とともに訪れた鰻の老舗「浅草やっこ」で昼食をとってから、最後に海舟誕生の地を訪れました。海舟の父勝小吉は、旗本男谷家から勝家に養子に出ていたこともあり、海舟誕生時には、男谷家敷地内に居住しており、海舟はそこで誕生しました(2018年9月訪問)。
男谷家屋敷跡(現両国公園)へ
幕末の剣聖 男谷精一郎
勝海舟が氷川清話の中で「本当に修行したのは、剣術ばかりだ。全体、おれの家が剣術の家筋だから…」と述べているように、海舟の父小吉の実家「男谷家」は海舟の「はとこ」である男谷精一郎(直心影流男谷派)により剣術の家として知られています。
男谷精一郎は、島田虎之助、大石進とととも「天保の三剣豪」「幕末の三剣士」と謳われるほどの剣の達人でした。またその門下から、明治に剣術が廃れていくのを救った「最後の剣客」とも呼ばれている榊原鍵吉を輩出しています。
精一郎は、どんな相手が挑んで来ても誠実に試合を受け、そして相手には、三本勝負のうちの一本は「花の一本」として与えました。しかし一本以上打ち込むことができたのは皆無だったほどの達人だったそうです。
海舟の師 島田虎之助
海舟は精一郎のすすめもあって、島田虎之助(精一郎門下)に就いて剣を学びました。島田は海舟に「剣術の奥義を極めるには、まず禅学を始めよと勧めた(氷川清話)」そうです。海舟は師匠に従い向島の弘福寺で禅の修行に励みました。
後に海舟はこう述べています。「この座禅と剣術とがおれの土台となって後年大層ためになった。瓦解の時分(幕府瓦解のとき)、万死の境を出入して、つひに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった(氷川清話)」。
現在は両国公園となっている男谷家屋敷跡を訪ね、海舟の生家ということだけでなく、精一郎、島田虎之助をはじめとした幕末の剣の達人たちが集う環境が海舟の人生に与えた影響を考えずにはいられませんでした。
吉良邸 赤穂浪士討ち入りの地へ
ここから、話は元禄時代に飛びます、飛びすぎですね(笑) 海舟が愛した赤坂の氷川神社は元禄時代には、浅野内匠頭の正室瑤泉院が事件後に暮らした実家があった場所(「南部坂雪の別れ」の舞台)ですが、海舟めぐりのまち歩きで偶然にも、またまた赤穂浪士ゆかりの場所を訪れることができました。
海舟の生誕地から、赤穂事件、忠臣蔵の最重要スポットである吉良上野介屋敷跡は目と鼻の先の近さにあります。とは言っても、浪士討ち入りの後は町人地となったようで遺構はまったくありません。
それでも、本所松坂公園で吉良邸があったこと偲ぶことはできます。歴史ファンに嬉しいのは、墨田区が設置している「吉良邸表門跡」「吉良邸裏門跡」の高札です。ここで大石内蔵助たちが…ここから大石主税たちがと元禄赤穂事件に思いを馳せることができます。
海舟が、忠臣蔵や赤穂事件のことをどのように感じていたかはわかりませんが、住まいの近くにゆかりの場所が多かったこともただの偶然ではないのかもしれません。
その他の歴史スポット
両国と言えば、相撲という方も多いかと思います。まちを歩いていると相撲部屋がたくさんありましたし、お相撲さんともすれ違いました。ちょっと髷と浴衣姿に江戸気分が高まります。その気分のまま訪れたいのは、やはり「江戸東京博物館」です。併せてこの地は葛飾北斎の生誕地でもあるということで「すみだ北斎美術館」も巡るのもおすすめです。
道を歩いているだけで、墨田区が設置している様々な歴史高札(案内板)に出会います。一日費やしての歴史探訪におすすめのスポットです。みなさんもぜひ訪れてみてはいかがでしょうか?