2018年は江戸の終わりから150年になります。では江戸の都市としての始まりはというと、徳川家の本拠地となったときからというのがまずまず正しいのかと思います。しかし、家康の入府前においても、江戸は関東における重要な戦略拠点と位置付けられていました。その基礎を築いたのが扇谷上杉氏の家宰太田道灌でした。
江戸は、上杉氏にとって房総半島の千葉氏の武蔵国への進出を防ぐために、さらに品川湊の近くという海上交通の利便性も相まって道灌が城を築き初代江戸城主として治めていました。家康の入府に先駆けること150年ほど前のことになります。
扇谷上杉氏の家宰として活躍した道灌は、主である上杉定正により悲劇の最期を遂げます。その舞台となった上杉定正糟屋の館跡を訪ねました。(2018年11月24日最終更新)
道灌の暗殺
太田道灌の太田氏は、摂津源氏の流れで源三位頼政の末子広綱を祖とする名門で、扇谷上杉氏に家宰(重臣筆頭)として仕えていました。扇谷上杉氏は、上杉家の本家とされる山内上杉氏の親類として関東管領に就くことも可能な家柄でしたが、定正自身が「我が家は山内の半分にも満たない」と嘆くように、その勢力は大きなものではありませんでした。
しかし、30年にも及び関東の戦乱(享徳の乱、長尾景春の乱)が終わったころには、道灌の活躍もあって扇谷の勢力は山内に引けを取らないほどになっていました。道灌の暗殺はこれを危ぶんだ山内上杉氏の当主顕定の策謀とも、また、定正自身が家中で定正以上に力をつけてきた道灌を恐れ、除こうとしたとも言われています。
さらに道灌自身も「山内家が武・上の両国を支配できるのは、私の功である(太田道灌状)」と考え、その功績に報いられていないという思いを持っていました。扇谷の先代当主が亡くなり、家督相続において定正を擁立したのも道灌であったことから、知らず知らずに道灌の(自分のおかげという)態度にも現れ、定正にとっては目の上のたん瘤のような存在となってしまったのかもしれません。
文明18年7月26日(1486年8月25日)わずかな供回りとともに、糟屋の館に入った道灌は、湯を馳走されます。定正へのわだかまりはあるもののまさか暗殺ということは念頭になかった道灌は、風呂の小口を出たところで曽我兵庫に斬られ「当方滅亡(扇谷滅亡)」と言い残して亡くなりました。
糟屋の館跡地にて
糟屋の館の跡は、現在は産業能率大学の校地となっています。大学の校舎付近が、周辺で一番高い場所であるため館もこのあたりにあったのではないかと推測します。ただ、学校建物建設にあたっての調査では、館の詳細な場所までの確認はできなかったそうです。
それでも相模の守護所でもあった館の跡を求めて歩きます。すると、大学の校舎を囲むかのように、大きな空堀のような溝がありました。
幅が20mくらいもある大きなもので、ちょっとした渓谷のような趣もあります。何かの本では、「中世の堀にしては大き過ぎるため、館の堀と考えるのはどうか?」と載っていた記憶があるのですが、歴とした防御施設跡であり、元々の地形(天然の要害)に手を加えて強化を図ったのではないかというのが現地を見ての感想です。
現在、大学周辺が第二東名高速の工事に伴う遺跡発掘調査中でもあったので、これから新たに何かがわかることにも期待したいですね。
七人塚と洞昌院(胴塚)へ
糟屋の館跡から数分のところに、七人塚と洞昌院があります。七人塚は道灌暗殺の際に、ともに討たれた道灌の従者7人の塚と伝わっています。
七人塚からすぐのところに洞昌院道灌の墓所(胴塚)があります。主従は、500年以上のときを経ても近くにあります。洞昌院では、切りつけられて傷ついた道灌が洞昌院まで落ち延びたが、門が閉まっていて中に入れずに、刃に倒れたと伝わっています。そのため、洞昌院では山門に扉をつけてはならないと語り継がれているそうです。
糟屋の館、七人塚、洞昌院の位置関係から、主の叫びを聞いた従者が道灌を守りながら洞昌院をめざし、それぞれ力尽きて討たれたというふうにも想像ができるかもしれません。
大慈寺(首塚)へ
道灌の墓所は、伊勢原市内にもう一か所あります。首塚と伝わる大慈寺へと向かいます。大慈寺はもともとは鎌倉にあったお寺で道灌が伊勢原に移し、道灌の叔父又は甥とされる人物が中興開山したということで、討たれた道灌の首を懇ろに供養したそうです。
道灌亡き後の太田氏は、扇谷上杉家の滅亡、後北条氏の進出など荒波にさらされながらも血脈をつなぎます。道灌の曽孫にあたる太田康資は一時後北条氏により曾祖父道灌が築いた江戸城の城代を任せられるなどしています。しかしながらその後のことがよくわかっていません。
徳川家康の寵愛を受けた英勝院(お梶・お勝)は、康資の子(道灌の玄孫)という説があります。英勝院は兄重正の子資宗を養子にして、徳川秀忠に出仕させました。資宗は、大名となりその子孫は掛川藩5万石で明治を迎えています。大名家としての太田氏が道灌とのつながりは定かではないようですが、太田氏の名跡が江戸にも受け継がれたのです。
ちなみに、英勝院は、「うまいものも塩、まずいものも塩」の逸話でも有名ですね。この利発さは、道灌譲りのようにも思えてきます。
余話(明治以降の太田氏のこと)
大慈寺の寺歴に少し面白い記載があったのでご紹介します。
毎年、江戸の太田家から7月15日に代参(代参人、僕=家来、文持の3人)が来られた。午前11時ごろ、江戸から到着、すぐに霊前に参拝、続いて読経
つけ届けは白木の三宝に金子300匹(1匹=10文、後に25文、1両=4000文)、入浴・食事の後、洞昌院に立たれる・・・それ以外に、毎年寺へ米五俵分・・・
以上の太田家からの参拝(つけ届け)は明治9年に終わる。(鈴木春吉氏への聞き取り昭和11年調査)
大名家としての太田家は、江戸期から明治初期にかけて、道灌墓所への参拝を欠かさなかったことがわかります。しかし明治9年にそれが途絶えます。やはり子爵となっても江戸時代のようには豊かではなくなったのでしょう。時代の移ろいがわかりますね。
太田道灌に関連する資料を伊勢原市図書館等で読んでいると、道灌の主であった定正もなかなか面白い人のようで興味が出てきました。いつか定正視点でもう少し勉強し、掘り下げれたらと思います。