歴史が好きで美味しいものが好きなことから、歴史ある美味しいものを味わうのが楽しみとなっています。今回は、前回の深大寺蕎麦に続いて初めて江戸時代からのお寿司の名店「笹巻けぬきすし総本店」に伺いました。なんと創業は1702年。歴史に詳しい方なら元禄15年の赤穂浪士による吉良邸討ち入りと同年であることにお気づきかもしれません。
赤穂浪士のだれかが討ち入りの前に食した…というのは伝わらず、小説の世界でならば描けるかな?というところですが、江戸中期(元禄時代)以降に形作られ、日本の誇る伝統食となった寿司の成立に大きな影響を与えた鮨が現代にその味が伝わっていることをがとても嬉しく、どのようなお寿司なのか気持ちを高ぶらせながらの訪問となりました。(2019年3月訪問)
まずは守貞謾稿で江戸の評判を確認
江戸の美味しいものの確認ということでいつもわたしが参考にしているのが、幕末に書かれた喜田川守貞の守貞謾稿(近世風俗志)です。今回も早速調べてみると…やはりありました。こちらに記載があるということは、まずその当時名の知れた名店であったことに間違いはありません。
毛ぬきずしと云ふは、握りずしを一つづゝくま笹に巻きて押したり。値一つ六文ばかり。(守貞謾稿)
一文を12円くらいとしますと、ひとつ72円くらいというところになります。一つづつ熊笹で巻いて押しているところは現在も変わらず、古くからの押し寿司の形も伝える製法となっています。
大江戸今昔めぐりでお店の場所を確認
お店は新御茶ノ水駅がすぐのところにあります。笹巻ということで笹が目印となっています。
お店の前ではいつものように「大江戸今昔めぐり」にて幕末の地図と現代の地図を重ねて比較してみます。すると…山城淀藩(10万2千石)稲葉長門守正邦の屋敷跡と表示されました。さすがに淀藩邸内にお店があるのはおかしなことです。
よくよく店の歴史を調べると、元々は越後の新発田出身の松崎喜右衛門(初代)という人が創業し、のれん分け等により神田にもお店ができ、そのお店は以前は昌平橋近くにあったそうです。昌平坂学問所や湯島聖堂に通う旗本や御家人、学者、諸藩の優秀な藩士もこちらを訪れたのかもしれません。
お店の案内にも旗本松平侯等々の「毛抜きにて魚の小骨を抜き鮨をつくる面白さ」から評判になり…というような説明がありました。
店内でも食べることができるのですが、今回はお土産にして家族にも食べてもらいたいのでお持ち帰りとしました。注文してから作っていただけるために、10分弱くらい店内で待ち無事に念願叶っての購入です。
元々は日持ちを重視して酢を今よりも効かせていたそうです。今はそれほど酸味を抑えているようなのですが、一日経ったくらいがタネと味がなじんでより美味しいそうです。今回も翌日にいただくことにしました。
翌日、この鮨を考案した松崎喜右衛門(初代)と伝統をつないでくださった方々に感謝しながら美味しくいただきました!
江戸三鮨のこと
この記事のために少し調べていると江戸には毛抜きすしのほかに、与兵衛寿司(文政7年(1824年)創業)、松が鮨(文政13年(1830年)創業)の2つの寿司店があり、併せて江戸三鮨と呼ばれているそうです。毛抜きすしと比較して守貞謾稿で次のような記述がありました。
毛ぬきずしの他は、貴値のもの多く、鮨一つ値四文より、五、六十文に至る。天保府命の時、貴値の鮨を売る者二百余人を捕へて手鎖にす。その後、皆四文・八文のみ。府命弛みて、近年二、三十文の鮨製するものあり。(守貞謾稿)
与兵衛寿司と松が鮨はとにかく豪華なそして高価な鮨だったようです。それにより水野忠邦による天保の改革では、華美で贅沢として倹約令に触れ、処罰されるほどであったそうです。与兵衛寿司は昭和5年に廃業とのこと、残念です。松が鮨も江戸期までに廃業していたものと思われます(定かではありません)。
そんな中、庶民にも手の届く価格での販売をしていた毛抜きすしは脈々と伝統をつないでいます。ぜひ一度江戸の味を味わってみてはいかがでしょうか?
「江戸の味」守り続けて三百年 馴染のお客様に支えられて 笹巻けぬきすし総本店 神田法人会