日本史は、日々の研究や発掘の成果により更新されています。それでも、いつどんな発見があったのかは、あまりに多くの発見があるために忘れてしまいがちです。ここでは、2020年の戦国時代と安土桃山時代の新発見を月ごとに記録してまいります。今年も驚くような新発見に出会えますように…。(2020年8月16日最終更新)
1月
豊臣家と北野天満宮の深い縁 「躰阿弥」銘入りの金具、西回廊で発見 2020年1月1日 京都新聞
北野天満宮(京都市上京区)の本殿(国宝)に続く西回廊(重要文化財)で、安土桃山から江戸時代にかけて京都で活躍した錺師(かざりし)「躰阿弥(たいあみ)」の銘が入った金具が見つかった。織田信長や豊臣家にも仕えた錺師で、豊臣家と天満宮の深い縁があらためて浮き彫りになった。
駿府城跡で新たな石垣遺構、静岡 家康、秀吉いずれの城跡か調査へ 2020年1月7日 共同通信
静岡市は7日、駿府城跡(同市)の発掘調査で2018年に見つかった戦国時代末期の「天守台」とみられる石垣の近くに、新たな石垣遺構を発見したと発表した。天守につながる「小天守」とみられる。駿府城は徳川家康が晩年を過ごした城として知られる。市によると、小天守を備えた城郭は、江戸時代に入り家康が築城に関わった江戸城や名古屋城に見られる特徴だが、江戸時代より前の城跡で小天守が見つかるのは全国初という。
出典: this.kiji.is
信長時代の「天守台石垣」発見 岐阜市、安土城の起源か 2020年1月7日 共同通信
岐阜市は7日、岐阜城がある金華山山頂部の発掘調査の結果、現在の天守閣西側で織田信長が居城した当時のものとみられる「天守台石垣」を発見したと発表した。市は「信長が後に築城した安土城(滋賀県)で完成したとされる天守の起源を考える上で重要。原型のような建築物が岐阜城に存在していた可能性がある」としている。
出典: this.kiji.is
【独自】武田信玄から織田信長への感謝状発見「お味方くださること、頼もしく」 2020年1月13日 読売新聞
上杉謙信との戦いに備える武田信玄(1521~73年)からの、織田信長(1534~82年)宛て書状が見つかった。信長の協力姿勢への謝意を伝える内容だ。書式などから信長が権力を確立した後、1570年頃に書かれたものとみられる。信玄から信長に宛てた文書の原本は希少で、戦国時代の両雄の関係をたどる上でも貴重だ。
この書状が元亀元年=1570年頃とすると織田家と武田家の盟約が破れる直前のものと考えられます。同年12月には、武田家の部将秋山虎繁の奥三河侵攻が起こっており信長は間接的に徳川氏ともに武田氏との戦いを始めています(元亀3年説あり)。いずれにしても元亀2年の信長による比叡山焼き討ち、北条氏との甲相同盟復活による越後上杉氏への牽制強化が織田家と武田家の関係の転換点になったと思われます。
謎の光秀出生地に新説、岐阜でなく滋賀? 新たな古文書発見 2020年1月15日 京都新聞
前半生が謎とされる戦国武将明智光秀の出生地について、滋賀県多賀町中央部の「佐目」と明記した1672(寛文12)年編さんの古文書「江侍聞伝録(ごうじもんでんろく)(禄)」が、県立図書館(大津市)で確認された。同様の記述は、同一著者とみられる貞享年間(1684~88年)の「淡海温故録(おうみおんころく)」にもあるが、江侍聞伝録はそれより古く、調査をした県教育委員会の専門家は「成立年代がはっきり分かり、光秀の出生地を記した最も古い史料」と指摘している。
明智光秀「お膝元」築城前から有数の都市だった 滋賀・中世坂本で水晶遺物など発見 2020年1月23日 毎日新聞
大津市教委は23日、宅地造成に伴う同市下阪本3の発掘調査(約877平方メートル)で、15世紀後半~16世紀半ばの建物の礎石や井戸の跡を発見したほか、多数の水晶加工の遺物などが出土したと発表した。NHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公でもある戦国武将、明智光秀が坂本城を築城する以前の坂本の繁栄や、職人の様子を示す貴重な資料としている。
出典: mainichi.jp
2月
土岐氏の大桑城に攻め入り、周辺の山焼く 古文書に道三の下克上 2020年2月2日 岐阜新聞
岐阜県山県市大桑(おおが)の十五社神社が所蔵する古文書に、美濃国守護だった土岐氏と勢力を増していた戦国武将斎藤道三が、1547(天文16)年に戦った時の様子が詳しく記されていることが分かった。斎藤軍が同市大桑にある土岐氏の居城大桑城に攻め入り、周辺の山を焼いたことなどが書かれており、調査に協力した地方史研究家の西村覺良(かくりょう)さん(76)=同市大桑=は「天文16年には土岐氏がかなり劣勢になっていたことの裏付けになる」と話す。
遺構、遺物が出土 里野中山城跡で現地説明会 2020年2月5日 紀伊民報
和歌山県文化財センターは、すさみ町里野の里野中山城跡で行った発掘調査で、山城に伴う土塁や土杭などの遺構、安土桃山時代~江戸時代初めごろの出土遺物を確認したと発表した。周辺には城館遺構は少なく、貴重な遺跡という。
出典: www.agara.co.jp
どこにあった?「天草コレジオ」の謎に決着か 論争60年超、英国に古文書 2020年2月10日 西日本新聞
熊本県天草地方に1591~97年にあったとされるキリシタンの最高学府「天草コレジオ」の所在地について、現在の同県天草市河浦町にあったことを示す古文書が、英国の大英図書館に所蔵されていることが分かった。具体的な地名に言及した文書が確認されたのは初めて。天草コレジオの場所は、キリシタンへの迫害から逃れるために当時の宣教師の書簡にも残っておらず、市町合併で天草市になる前の旧河浦町と旧本渡市のどちらにあったか論争が続いていた。
文化庁の移転先、発掘で戦国時代の「構」発見 大規模、緊迫の京都物語る 2020年2月15日 京都新聞
室町時代後期(戦国時代)に築かれた大規模な堀跡が、京都市上京区の京都府庁内の発掘調査で見つかったと、府埋蔵文化財調査研究センターが13日発表した。建物を守る防御施設「構(かまえ)」の一部とみられ、最大3本が併存した可能性もあり、戦国期の緊迫した京の情勢を物語る。
岐阜城天守、高く見せる工夫?「信長の石垣」2段目発見 2020年2月18日 朝日新聞
岐阜市教育委員会は18日、織田信長が築いたとみられる岐阜城天守台(天守の土台)の下に、2段目の石垣が確認されたと発表した。天守台は昨年に初めて見つかり、市教委が調査を続けていた。担当者は「信長が権威を示すために、城下町から仰ぎ見ると天守が高く見える工夫をしていたのではないか」と話す。2段目の石垣は、今の天守の西側で見つかった。土砂を取り除き、昨年12月に石垣の表面を確認。その後の発掘で、この石垣の裏側に詰める「裏込(うらごめ)」と呼ばれる多数の石や、天守台の一番下の石が見つかったという。
出典: www.asahi.com
3月
青色にじむ最高級の「打曇」古文書 天皇直筆の書と確認 2020年3月6日 朝日新聞
愛知県豊橋市は3月5日、市内にある羽田(はだ)八幡宮所蔵の古文書2点について、戦国時代から江戸初期の後奈良天皇(1497~1557)と後陽成天皇(1571~1617)の直筆の書(宸翰〈しんかん〉)と確認されたと発表した。同じく見つかった鎌倉時代の後二条天皇(1285~1308)の書と伝わる1点は、比較する例が少ないため、今回は宸翰と確認するにはいたらなかった。
出典: www.asahi.com
戦国武将 松永久秀の肖像画を発見 出っ歯だった? 悪人イメージ覆すか 2020年3月4日 産経新聞
戦国武将、松永久秀の実像に近い可能性のある肖像画が見つかり、所蔵する大阪府高槻市が4日、発表した。大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する久秀の肖像画は荒々しい極悪人風に描かれた錦絵がよく知られてきたが、発見されたのは前歯が出ているなどの特徴をとらえた写実的な肖像画で、専門家は「従来の悪人のイメージを覆す貴重な資料」と話している。
出典: www.sankei.com
4月
戦国時代の出雲大社遷宮 詳細に迫る178通の古文書 たたら製鉄の隆盛も 2020年4月6日 毎日新聞
出雲国造(こくそう)北島家(島根県出雲市大社町杵築東)が所有する古文書の研究グループ(代表・藤森馨国士舘大教授=書誌学)は、戦国時代の出雲大社の遷宮などの詳細に迫る178通を発見したと発表した。たたら製鉄の隆盛ぶりなどが分かり貴重という。明治時代まで出雲大社の祭祀(さいし)を担った北島家の蔵にあり、原本84通、原本の控えである「案文」49通など。
出典: mainichi.jp
京都・旧相国寺境内から謎の大型建物跡 戦国期に焼失か 2020年4月30日 産経新聞
京都五山のひとつで足利義満が創建した相国寺の境内があった京都市上京区の土地から、16世紀中ごろの大型の建物跡が出土したと、民間調査会社「文化財サービス」(京都市伏見区)が30日、発表した。これまでの記録などでは未確認の建物跡で、周囲から焼けた遺物や遺構が出ていることなどから、完成直後に火災で焼失した可能性が高いという。
出典: www.sankei.com
5月
秀吉最後の城、幻の「京都新城」初めて出土 逸話に沿う石垣破却、桐や菊文様の金箔瓦 2020年5月12日 京都新聞
豊臣秀吉が生涯最後に築いた「京都新城」の本丸を囲う石垣や堀が、京都市上京区の京都仙洞御所内の発掘調査で見つかったと、市埋蔵文化財研究所が12日発表した。史料も数少ない「幻の城」で遺構が確認されたのは初めて。石垣は上部が破却されており、関ケ原の戦いの前に一部が壊されたとの逸話に沿う。秀吉晩年の政権構想や死去後の政変を考える手掛かりになりそうだ。
明智秀満の船戦、記した古文書見つかる 光秀の重臣「湖上渡り」伝説の一端か 2020年5月29日 京都新聞
戦国武将明智光秀の重臣の一人である明智秀満(左馬助)が1582(天正10)年の本能寺の変の直後、瀬田城主山岡景隆に船戦(ふないくさ)を挑んだことを記した古文書が、石山寺(大津市石山寺1丁目)で見つかった。秀満は山崎合戦の後、愛馬に乗ったまま琵琶湖を渡った「湖水渡り」の伝説で知られるが、関連する史料が少なく、その生涯は謎に包まれている。専門家は「実像に迫る上で貴重な史料」と評価する。
6月
琵琶湖に浮かぶ島の5棟 秀吉大坂城の豪華な橋を移築? 2020年6月2日 朝日新聞
琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)(滋賀県長浜市)の宝厳寺(ほうごんじ)の唐門(からもん)(国宝)など4棟と隣接する都久夫須麻(つくぶすま)神社(竹生島神社)の本殿(国宝)の計5棟が、豊臣秀吉が建てた大坂城の極楽橋を移築した可能性が高いことがわかった。滋賀県によると、1615年の大坂夏の陣で焼失した大坂城の建物はほかに現存せず、派手好みの秀吉らしさが伝わる貴重な遺構という。
出典: www.asahi.com
三好三人衆の一人・釣竿斎宛て利休の手紙 永禄年間、親密な交友 2020年6月2日 徳島新聞
茶道を大成させた千利休(1522~91年)が、徳島ゆかりの戦国武将三好三人衆の一人、三好釣竿斎(出家前は政生、生年不明~69年)に宛てた手紙が見つかった。釣竿斎は織田信長に先んじて畿内を制した最初の天下人三好長慶の一族。手紙が書かれた永禄年間は、三好三人衆が畿内に強い影響力を持っていた。茶道史に詳しい茶道資料館(京都市)の筒井紘一顧問は「流れが自然で硬さがない筆跡から利休の真筆だ」と鑑定した。
出典: www.topics.or.jp
九鬼氏に剃髪禁じる書状 石田三成ら五奉行通達 鳥羽市教委 三重 2020年6月12日 伊勢新聞
【鳥羽】三重県の鳥羽市教委は11日、志摩国出身で九鬼水軍を率いた水軍の将としても知られる九鬼嘉隆(1542―1600年)と守隆(1573―1632年)の親子が、当時の政権を運営していた石田三成ら五奉行から剃髪を止めるよう指示を受けていたことを示唆する史料が見つかったと発表した。
出典: www.isenp.co.jp
秀吉側近の「駒井日記」原本確認 2020年6月15日 NHK
駒井日記の原本の一部が見つかった。日記には、文禄3年(1594年)2月、豊臣秀吉・秀次がいまの奈良県吉野で花見を行ったことなどが記されている。駒井日記は、江戸時代の写しが数巻分残されていて、原本は失われたと考えられていた。原本と判断した関係者は、重要文化財クラスの記録、などと述べた。
NHK
信長築いた将軍の旧二条城、「室町通」を横断 幕府が最重要視の道に異例の堀跡、高層建物か 2020年6月25日 京都新聞
室町幕府の15代将軍足利義昭のため織田信長が築いた旧二条城跡(京都市上京区)で、城の最中心部「内郭」を囲ったとみられる堀跡が市の発掘調査で見つかった。室町通という幕府が最も重視したメインストリートを横切る異例の形で築かれ、乱世の緊迫を背景にした近世移行期の遺構とみられる。
7月
秀吉の「大峪城」地形生かし短期築城 富山、初試掘で本丸構造明らかに 2020年7月21日 北日本新聞
富山市埋蔵文化財センターは20日、2019年に初めて試掘調査を行った同市五福の大峪(おおがけ)城跡で、絵図でしか分からなかった本丸の構造が明らかになったと発表した。盛り土をせずに、地形を生かして短時間に築城したとみられる。
大峪城は1585年に豊臣秀吉が越中に出陣した「富山の役(佐々攻め)」に際し、安田城(同市婦中町安田)と共に本陣・白鳥城(同市吉作)の出城だったとされる。
出典: news.yahoo.co.jp
信長の安土城で新たな曲輪を発見 航空レーザー測量で 2020年7月22日 共同通信
織田信長が築いた安土城(滋賀県近江八幡市)の北側に、建物を建てたりする平たん部「曲輪」が4カ所あることが滋賀県が実施した航空レーザー測量で22日分かった。
県文化財保護課は「これまで天主跡がある安土山南部に遺構が集中していると考えられていたが、全体に広がっていた可能性がある。新たな遺構が見つかれば、城の構造を見直す手掛かりになる」としている。出典: this.kiji.is
鉄砲製造「分業制」裏付け 堺で発見、8月公開へ 2020年7月23日 産経新聞
戦国時代から江戸時代にかけて鉄砲(火縄銃)の一大生産地だった堺で、鉄砲鍛冶と下請け職人が取り交わした納品台帳「通(かよい)」が見つかった。堺市に現存する最古の鉄砲生産現場である鉄砲鍛冶屋敷「井上関右衛門(せきえもん)家」(堺区)の調査で発見。市文化財課は「鉄砲製造がどのように分業されていたかや、鉄砲鍛冶と下請けとの関係性が分かる貴重な資料。堺のものづくりの原点につながる発見」としている。
出典: www.sankei.com
8月
光秀の妻、亡くなった年判明? 本能寺の変の前か、寄進の涅槃図に戒名 2020年8月7日 京都新聞
大津市比叡辻2丁目にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)が所蔵する「仏涅槃(ねはん)図」の裏に描かれた寄進銘に、滋賀ゆかりの戦国武将明智光秀の妻煕子(ひろこ)の戒名が見つかったと、大津市歴史博物館が7日発表した。煕子が亡くなったのは、本能寺の変より前の1576(天正4)年とされる説と、変の直後の82(天正10)年の説があるが、仏涅槃図は81(天正9)年に寄進されたと記されており、同博物館は「天正9年以前に亡くなったことが確認され、天正4年死亡の可能性が高くなった」としている。
宇喜多直家の舅は「勝政」? 実名入り書状発見 岡山 2020年8月7日 産経新聞
岡山県立博物館(岡山市)は、備前国の戦国武将・宇喜多直家の舅(しゅうと)とされる沼城(同市東区)城主、中山備中守(びっちゅうのかみ)の書状が見つかったと発表した。「勝政」と署名されており、中山備中守の実名が入った書状の発見は初めて。これまで判明していなかった実名の可能性が高いという。
出典: www.sankei.com
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