秀吉書状の新発見
東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授が25日に現地で調査して、筆跡と内容から真筆と判断しました。
織田信長が明智光秀に討たれた1582年(天正10年)の本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉が家臣に宛てた書状が愛媛県内の個人宅で発見された。
変後に横行した京都市中での略奪に対し、信長ゆかりの品物に限っては持ち主に返すよう命じた内容だ。亡き主君・信長を変後も秀吉が尊重していたことを示す史料として注目される。
書状の書かれた時期と出来事
書状は、天正10年8月14日付のものです。本能寺の変が6月2日、山崎の戦いが6月13日ですから、そのおよそ2ヶ月後の文書です。
- 3月11日 – 武田家滅亡
- 6月2日 – 本能寺の変
- 6月13日 – 山崎の戦い
- 6月27日 – 清洲会議
- 7月8日 – 羽柴秀吉が山城国で指出検地に着手する
- 8月14日 -この書状の日付
- 8月28日 – 長宗我部元親が十河存保を破る(中富川の戦い)
- 10月15日 – 秀吉が大徳寺で織田信長の葬儀を執行
発見文書と報道記事から知ることができること
(1)戦国時代の慣行で、略奪から財産を守るために武士や公家が寺社に「預物」をしていたこと。
(2)明智勢が本能寺の変後に都で預物の略奪行為を行っていたこと。
(3)山崎の合戦の後に、略奪による品を元の所有者に戻そうとしたところ、それを行う秀吉家臣までもが略奪をするといった状況となり、秀吉がさじを投げたこと。
(4)しかしながら、上様(織田信長)ゆかりの預物(信長の所有物や、信長から賜った「上様御物」)だけは例外で元の持ち主に戻すことを愛じていること。
(5)本能寺の変直後は、上様と織田信長を敬っていること。
戦国時代、略奪を避けるため武士や公家が寺社に財産を預ける「預物(あずけもの)」の慣行があったが、変後は明智勢による預物の略奪が頻発。明智勢を破って入京した秀吉は、それらの略奪物の持ち主を確認するよう家臣に命じたが、秀吉の家臣までもが預物の略奪を始めた。
書状では、家臣の略奪を受け、「預ヶ物(預物)」や「乱妨物(強奪した物)」については「(今後)一切調査は行わない」と伝える一方、信長の所有物や、信長から賜った「上様御物(うえさまごもつ)」は返還を命じている。
村井准教授は「秀吉の尊敬の念が見て取れるが、本能寺の変後も信長の影響力は健在で、権力維持のため信長の存在を無視できなかった側面もある」と分析している
出典: www.nikkei.com
3年後の書状では・・。
2016年1月26日配信 神戸新聞NEXT
書状では、秀吉が追放した家臣をかくまわないように指示する。「秀吉の御意に違う候輩(ともがら)、信長の時の如く少々拘(かか)え候へとも苦しからずと空だのみし許容においてはかたがた曲事(くせごと)たるべく候(秀吉の意思に背く者ども、信長の時代のようにかくまっても許されると思い込んでいると処分する)」主君だった信長を呼び捨てにし、自らの権勢を厳格に示した。
3年後には「上様」から「信長」になっていることが権力者の自信を感じます。ただ、書状での呼び捨て書きは、失礼に当たらなかったという研究もあるそうで(こちら参照)、現代の感覚で一概には捉えられないかもしれません。
天正10年は激動の一年でした。まだまだのちの豊臣政権のような官僚組織が出来ていない中で、すべての政治・行政を秀吉自ら担っていた大変な時期だったかと思います。秀吉自身が、織田家を尊重していたことは信長嫡孫織田秀信の遇仕方でもわかります。何といっても信長あっての秀吉だったことは一番本人が身にしみているのではないでしょうか・・。
みんなの反応
どういうことなんだろうね…いろいろな意味が考えられるんだろけど… https://t.co/Xq7WDfy8vg
— かわうそtan 新撰組関連読みたい病中 (@kawauso_tan) October 25, 2017