【幕末】咸臨丸の調査始まる 太平洋横断後の咸臨丸

投稿者: | 2017年11月27日

「咸臨丸(かんりんまる)」と言えば、万延元年(1860)に徳川幕府の船舶として初めて太平洋の往復を果たした蒸気船として知られています。勝海舟・ジョン万次郎・福澤諭吉らが乗船し、帰路については、日本人だけで成し遂げたことは幕末日本の偉業とされています。

その咸臨丸について、沈没場所とされる北海道木古内町(きこない)沖で咸臨丸を製造したオランダの文化庁と東京海洋大学との共同調査が行われています。

北海道で沈没したのであれば、戊辰戦争の函館戦争で沈没したのかと考えがちですが、そうではありません。太平洋横断ののちの、咸臨丸のその後を追いました(2017年11月27日)

咸臨丸の調査(今回の報道)

「咸臨丸」どこに 木古内沖 来年度は潜水も 東京海洋大とオランダ文化庁が調査 2017年11月24日 北海道新聞

幕末に勝海舟らを乗せて日本船として初めて太平洋を横断し、1871年(明治4年)に渡島管内木古内町のサラキ岬沖で沈んだオランダ製軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」の調査に、東京海洋大教授とオランダ文化庁の調査官が乗り出した。21日まで3日間、町内で聞き取りなどを行った。来年度以降、潜水による探索も行う。明治時代から謎とされていた詳しい沈没場所の解明につなげたい考えだ。

出典: www.hokkaido-np.co.jp

太平洋往復から小笠原諸島調査

文久2年(1862)に咸臨丸は、小笠原諸島(父島・母島等)に派遣されます。これは、太平洋往復にも乗船していたジョン万次郎が小笠原諸島の領有と捕鯨基地化を提案したこと、アメリカやイギリスが領有権の主張を始めたことから日本としてしっかりとして測量を行う必要が生じたためでした。この測量が日本の小笠原諸島領有の主張(文久2年5月駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告)を確かなものにすることになったため、咸臨丸は、太平洋横断以上に重要な役割を果たしたことになります。

太平洋の往復(かなりの悪天候)や小笠原諸島の調査など咸臨丸は幕府の蒸気船が少ないなかで、かなり酷使され、蒸気機関の疲弊が激しく慶応2年(1866)には帆船として利用されるようになります。

榎本脱走艦隊と咸臨丸事件

榎本艦隊から離脱

やがて戊辰戦争が始まります。慶応4年(1867)8月下旬には会津戦争が最終局面を迎えようとしていました。榎本艦隊は奥羽の支援のために品川沖を出航します。この艦隊に咸臨丸の姿がありました。島田魁日記には、「寒臨(咸臨)丸 帆運軍船」とあります。

しかし残念なことに出港後すぐに嵐に見舞われます。この嵐の様子は同じく島田魁日記にはこう記されています。

「八月十九日三更(子の刻)の闇にまぎれて品川を出航。二十一日、黄昏に鹿島灘を走る。暴風激しく、波は天に漲り、船を航行不能にし、そのため船は四方に散らばった。その勢いは水蛇が雲をしのいで昇天するようであった。船は殆ど沈没するかに思われた。大いに百辛千苦の思いだった。」

この嵐で、咸臨丸は榎本艦隊と離れ、下田港に漂着、救助に来た蟠竜丸と共に清水へ入港します。咸臨丸は、先の太平洋往復のときもですが、嵐にかなり妨げられる印象があります。現代のような天気予報がない当時は、外海に出ることは本当に命懸けであったことが改めてわかります。

咸臨丸事件と清水次郎長

慶応4年(1867)9月18日、修理の遅れから清水港に留まっていた咸臨丸は、新政府軍の富士山丸から砲撃を受けます。満足に戦うことのできない咸臨丸はこのとき白旗を掲げていました。しかし、新政府軍は容赦しませんでした。斬られた乗組員の遺体は清水港周辺に漂い、あるいは流れ着きますが、住民は新政府を恐れてだれも埋葬しようとしません。

この遺体を埋葬したのが、有名な清水の侠客次郎長です。「死ねば皆仏」と死体を引きあげ葬ったのです。次郎長は、明治20年清水市興津の清見寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立しています。

咸臨丸は新政府に接収され、北海道開拓使の輸送船として最後の任務に就くことになります。

清水次郎長

北海道での沈没

咸臨丸の最後については、沈没地の北海道木古内町観光協会のHPより引用します。最後の任務は、伊達家の片倉小十郎家臣団の北海道への移住支援でした。片倉家家臣団が開拓した地は、現在の札幌市白石区になります。最後まで国のために尽くした咸臨丸、この調査でその最後の場所だけでも特定できればと思います。

1871(明治4)年9月12日、咸臨丸は、
北海道移住を決意した片倉小十郎家臣団401名を乗せて、仙台の寒風沢を出航します。
箱館経由で小樽に向かう途中、
9月20日、木古内町サラキ岬沖で岩礁に乗り上げ座礁します。
現地(泉沢)の人々の懸命な救助により乗船者は難を逃れましたが、
咸臨丸はその数日後に破船沈没しました。

出典: kikonai-kankou.net

今回の咸臨丸の調査はまだ始まったばかりです。来年度は潜水による調査が予定されています。これまでにも咸臨丸の錨(いかり)が発見されたこともあり、今回の調査でより一層沈没地点も含め、歴史の真実に近づけることに期待したいと思います!

サラキ岬沖か引き揚げられた錨は咸臨丸の錨なのか? 木古内町観光協会