「隠し」キリシタンという表現を初めて目にしました。しかも藩ぐるみとなるとさらに大胆な仮説ということになります。江戸幕府初期のキリシタンに関係する遺物も残されていて、想像力が掻き立てられます。そんな報道を目にして、少しだけ関連することについて掘り下げたいと思います。
「隠し」キリシタンの里はどこの藩?
今回の報道
「隠し」キリシタンの里が大分に?藩ぐるみで見ぬふり説 2017年12月3日 朝日新聞
「隠れ」ならぬ「隠しキリシタン」の里があったとしたら。江戸時代に弾圧から「隠れた」のではなく藩ぐるみで「隠した」――。謎めいたキリシタン遺物が多い大分県竹田市は、観光客を呼び込もうとそんな見立てをアピールしている。
出典: www.asahi.com
豊後国岡藩(現竹田市)
藩ぐるみとされる舞台の藩は、「豊後国岡藩(7万石)」です。中川氏が江戸期を通じて国替えもなく支配しました。この中川氏の事実上の藩祖は織田信長と豊臣秀吉に仕えて活躍した中川清秀です。清秀は、著名なキリシタン大名高山右近とも荒木村重の幕下で同僚でもあったため、キリスト教への理解があったのかもしれません。ただ、清秀は賤ヶ岳の戦い(1583)で柴田勝家の部将佐久間盛政の奇襲に合い討ち死にを遂げていますので、今回の藩ぐるみには直接関係はないことになります。
それでも岡藩の初代藩主である清秀の次男秀成(長男秀政は朝鮮の役で討ち死に)が幼い頃に高山右近らの影響を受けて、キリスト教に寛容であったかもしれない?とする仮説もできないことはないかと思います。
中川清秀のこと
話が逸れますが、中川清秀は、秀吉の天下取りの一戦「山崎の戦い(天王山の戦い)」で大活躍し、明智光秀を破るのに貢献しました。その際の逸話、戦が終わった後の「(秀吉)瀬兵々々骨折々々」「(清秀)筑前最早天下を呑むの気あり、推参なり」は有名ですが、これにはもう少し前振りがあるのです。
清秀は大いに奮戦して明智勢を破るのに貢献します。戦が終わると織田信孝が来て、馬から下りて清秀の手をとって言いました。「明智勢を即時に討ち破り、亡き父信長の恨みを晴らしてくれたのは、ひとえに清秀の比類なき忠戦のおかげです」と。一方で後から来た秀吉は、馬から下りずに馬上から「瀬兵(清秀)骨折」と言います。清秀は大声で「筑前(秀吉)は、早くも天下をとった気でいやがる」と言いますが、秀吉は聞こえない振りをして通り過ぎます。
清秀の人柄のわかる逸話です。信長の子である信孝の態度と秀吉のそれとが対照的て面白くもあります。最も清秀と秀吉は、本能寺以前から親しくて兄弟の契りがあったそうなので、気軽にチャチャを入れやすかったのかもしれません。
中川清秀と佐久間盛政の子や孫たち
賤ヶ岳の戦いで清秀は佐久間盛政に攻められ討ち死にしたことは前述のとおりなのですが、2人の死後に、またまた秀吉がいろいろと動きます。秀吉は清秀の子秀成と盛政の娘虎姫の結婚を仲介するのです。秀吉流の「まぁまぁこれで遺恨はなしにしてちょ」ということなのかもしれません。結構秀吉は仇敵同士を組ませたり、結びつけたりをやりがちです。ただ二人は幸いにも仲睦まじかったようで、嫡男の二代藩主久盛をはじめとして7人の子に恵まれます。清秀と盛政の孫が七人。いろいろな縁があるものです。
竹田市のキリシタン遺物
今回の報道では3件のキリシタン遺物「キリシタン洞窟礼拝堂」「サンチャゴの鐘」「聖ヤコブとみられる像」が紹介されています。その詳細をはじめ竹田市のキリシタンにまつわるロマンに触れたい方は以下をぜひご覧下さい。
TAKETA キリシタン 謎 PROJECT 大分県竹田市役所
今回も、報道の本筋から離れた話ばかりになりました。ロマンあふれる竹田市のキリシタン伝説。いつか機会があればぜひ訪れてみたいと思います。