【戊辰戦争150年】 会津藩主 松平容保 生誕の地を訪ねる

投稿者: | 2018年1月14日

平成30年(2018)は、「戊辰戦争150年」にあたります。今回の歴史の散歩道では、会津藩主松平容保の生誕地を訪ねます。

会津藩家訓と容保

会津藩の藩祖保科正之は、徳川秀忠のご落胤として誕生しましたが、兄家光はその誠実さを愛し、また、正之もその期待に違わずに徳川家を身命を賭して支えました。家光は弟忠長とは違う欲のない誠実な弟を心から愛していたと言われています。

正之が遺した会津藩家訓十五条の1条に徳川家を最も大切に考えていたことがわかります。

「一、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国(他藩)の例を以て自ら処るべからず。若し二心を抱かば則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。」

松平容保は、高須藩松平家から会津藩へ養子として入り、養子であるからこそ強くこの家訓に従って勤めを果たそうとしたことは間違いありません。

京都守護職拝命の際にも、何回も固辞したにもかかわらず、松平春嶽からの「土津公(正之)であればお受けなさるでしょう」という殺し文句に折れることになります。その後の孝明天皇や大樹徳川慶喜への忠節を知ると、本当に誠実な殿様であったことが偲ばれます。

生誕の地「高須藩上屋敷跡」へ

松平容保は、天保6年(1836)12月29日に美濃高須藩松平家上屋敷で誕生します。現在の地図では丸ノ内線の四谷三丁目駅から程近くのところにあたります。

大江戸今昔めぐり(高須藩上屋敷跡)

今回も昨年リリースされた「大江戸今昔めぐり」で正確な場所を確認します。すると「松平摂津守義比三万石」の屋敷が表示されました。

この場所で、松平容保と後に伊勢桑名藩主となり、兄を支えて戊辰戦争を戦うことになる松平定敬が誕生しています。どちらも今で言うなら新宿出身の江戸っ子というところが意外な印象はあります。

この場所でも、150年前の面影を探して歩くことにします。今は荒木町という地名で松平家が退いて以降は、大名庭園が残り東京近郊でも名の知られた景勝地であったそうです。その景観の良さから風情のある花街として栄えました。

荒木町の横には、津の守坂通りがあります。この名は、高須松平家が代々名乗る「摂津守」から名付けられています。

金丸稲荷神社

上屋敷の跡は、多くの店舗が密集していて道など少しわかりにくくはありますが、アプリが示す、荒木公園側にある金丸稲荷神社を訪ねてみましょう。この稲荷神社は、天和三年(1683)に高須藩がこちらを上屋敷とした際に藩主の守護神として建立奉斎されたと伝わっています。幼い容保もこちらの稲荷神社をきっとお参りしたことでしょう。

金丸稲荷神社

江戸の大火にも、関東大震災にも災禍を免れ、東京大空襲では荒木町が焦土と化すも町民にひとりの死者も出なかった霊験あらたかなお稲荷様です。

策の池

金丸稲荷神社の横の小道を進むと小さな池と弁天様が見えてきます。この池は、高須藩松平家にあった池が小さく残ったものだそうです。江戸切絵図では大きな池がありますのでその名残となります。

策の池

江戸時代の古書「紫の一本」によると徳川家康が鷹狩りの際に近くにあった井戸で策(ムチ)を洗ったのでその井戸を「策の井戸」と呼び、その澄んだ水がこの池に注いでいたので「策(ムチ)の池」と呼ばれ、江戸八井のひとつとして庶民に愛されたそうです。

特にこの地自体が戊辰戦争の舞台であることでもありませんが、松平容保、定敬兄弟の誕生の地、少年時代に過ごした地であることを思うといろいろな感慨に浸れる場所でもあります。

次回は、ここからほど近い、「四谷大木戸」「内藤新宿」のあたりを散歩したいと思います。

周辺地図

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