【幕末】桜田門外の変 襲撃その後 大老の首は一橋慶喜邸へ?

投稿者: | 2018年3月5日

NHK大河ドラマ「西郷どん」で佐野史郎さんが演じている「井伊直弼」。安政の大獄により西郷隆盛の人生に大きな影響を与えた人物です。しかし、安政の大獄の影響を最も受けてしまったのは、はからずも井伊直弼自身でした。

安政7年3月3日(1860年3月24日)上巳の節句のため江戸城に登城途中の大老井伊直弼が暗殺されました。江戸の終焉を早めた「桜田門外の変」の地を158年前を想いながら歩いています。前回(桜田門外の変②)は、大老井伊直弼が薩摩浪士有村治左衛門により討ち取られるところまでご案内しました。今回は、討ち取った大老の首級の行方を追います。

悲嘆

井伊家が当主を襲撃で失ったのは、おそらく戦国時代に井伊直親が掛川で朝比奈泰朝に襲われて以来(1563年)のことでしょう。武士にとって、家臣にとって主の首を取られるという最も屈辱的な事態を前に、傷ついた近習が「御首を取られては…」と悲嘆に暮れている様子は、一部始終を長屋から見ていた杵築藩留守居役の目から見ても言語に絶することでした。

両三人面躰真赤になり其中壱人先々丈夫、漸立寄すり寄御死骸之処ニまいり見候之所、右之始末ニ付、此御首を取れてはと申歎悲しむ有様、誠ニ以て言語ニ絶候次第(杵築藩文書)

井伊直弼の遺体は、負傷した近習が六尺(陸尺:駕籠かき)を呼び寄せて屋敷に収容しようとしますが、逃げ失せてひとりもいない状況でした。そのため合羽持(小者)3~4人で遺体を駕籠に入れ、手負いの近習ひとりが付き添って井伊家上屋敷に戻りました。

鬢髪之所したたかに切付られ候苦近士壱人立まわり立まわり六尺を呼寄せ候得共、壱人も居不申逃去、合羽持三四人計りにて御死骸を御駕ニ取入レ、手負壱人付添へ漸く御屋敷へ持帰り、御駕も帰ル(杵築藩文書)

意地

井伊大老の首級をとった有村治左衛門とその他の浪士たちは、大声で叫び、他の者へ状況を告げました。それは勝鬨のような目的を達成したものの興奮の叫びでした。

(首級を)差通し高く差上候、此首さへ取ば此辺しかと相分がたく御座候と高声ニ申ければ、徒党之もの一同ニはつと大音上げ、其侭上杉様御門前通り、日比谷御門へ(杵築藩文書)

上杉家上屋敷前

その大声で、戦闘途中で意識を失っていた小姓小河原秀之丞が蘇生します。蘇生した秀之丞の目に入ったのは主君の無惨な亡骸でした。

そして、大声を上げながら日比谷御門方面へ歩く治左衛門と刀の先の主君の首を見て、(おそらく朦朧しとた意識の中で)主君の首を取り返そうと後を追います。この行為のみがまさに、井伊家の侍のせめてもの意地であったのでしょう。

秀之丞は、外桜田門前の出羽米沢藩上杉家上屋敷前(青点)のあたりで、治左衛門に追いつきます。襲撃現場からは、150~200mほどの追跡でした。

追いつくや否や、治左衛門が気がつかぬ間に後ろからその後頭部を深く斬りつけます。しかし反撃もそこまで、薬丸示現流と北辰一刀流を修めた治左衛門に片腕を斬られ、他の浪士からも斬りつけられて力尽きました(その後上屋敷に収容後死亡)。

一矢報いる」というせめてもの意地を見せた秀之丞、死の間際に「自分と同じく決死の者がいれば、むざと主君の首を取られることはなかった」と語っています。伴侍のうち、無傷、軽傷であったものは、後に主君を守護できなかった罪で斬首となりました。

米沢藩邸(現法務省)

小河原秀之丞によって、後頭部にも深手を負った有村治左衛門は、深い雪の中を歩き続けます。浪士の中には、老中脇坂安宅邸や熊本藩主細川斉護(細川越中守)邸へ趣意書を提出して自訴した者もいましたが、治左衛門は江戸城の堀沿いに歩き続けます。

日比谷堀

日比谷御門に向かう日比谷堀沿いを治左衛門は進みます。

日比谷御門のあたり

日比谷御門をどのように抜けたのかわからないのですが、堀に沿って左折し、さらに和田倉門方面へと進みます。浪士たちは事前に首級を取ったのちにどこにそれを持ち込むのか考えていたのでしょうか。それとも、そのような先のことまでは考えていなかったでしょうか。

和田倉門

後頭部を深く斬られ、満身創痍の治左衛門は堀に沿って歩き、襲撃現場から1.6kmはあろうかと思われる、和田倉のあたりまで歩きます。

治左衛門終焉地

同じ道を歩き、私にはどこか目的地に向かっているように感じました。目的なく逃走するだけであれば、どの方向にも逃げることはできるにもかかわらず、まっすぐに目的の場所へ向かっているように思えます。

そして、辰ノ口を抜けたところで遂に力尽き遠藤胤統(遠藤但馬守)邸前で自決しました。その様子は、以下のように記されています。

日比谷より八代洲河岸辺、遠藤様辻番へも首取壱人歩行難出来居処、腹切止メ、ノンドを突候処、仕そんじ引抜、又々突候得共矢張元之穴へ突込候様子ニ候得共、自由ならず胴の力も無之、往来之者へ手真似致、首打くれ候様子を致候(杵築藩文書)

なかなか死ぬことにできない治左衛門は、水を飲めば早死にできるという割腹の教えに従って、手近な雪を口に含んでいたところを救出され、遠藤邸に運び込まれるが間もなく絶命しました。

治左衛門は、大老の首を持ちどこに向かおうとしていたのでしょうか。行動をともにしていた水戸浪士広岡子之次郎は、遠藤邸のさらに先の姫路藩酒井家(酒井雅楽頭)の邸外までたどり着き力尽き自刃しています。さらに先には、誰の屋敷があったのか…。調べてみるとそこには、一橋刑部卿慶喜の屋敷がありました。

遠藤但馬守邸のあたり

徳川斉昭が水戸浪士の糸を引いていたのではないと考え、むしろ予期せぬ暴発を抑えきれなかったという立場であったのが妥当でしょう。しかしながら浪士たちは、水戸のため、尊皇攘夷のため、水戸密勅返還許すまじという考えから襲撃にいたり、精神的支柱としては斉昭がいたことに間違いはありません。そして、その子であり同じく水戸学を修めている慶喜に大老の首を献上したかったのかもしれないと考えるのは無理筋でしょうか。

しかし、もしも、一橋邸に大老の首が届けられてしまったならば、水戸の陰謀間違いなしという考えから、ただ事ではない事態になっていたのではないかと想像します。その後の将軍慶喜もなかったかもしれません。

彦根藩はそれから約8年後に徳川幕府を裏切ることになります。そのときの旧幕府のトップは慶喜です。彦根藩からすれば、もはや主君として忠義を尽くす対象とは見れなかったのかもしれません。

大老の首は、遠藤家にて新しい飯櫃に入れられ、その後彦根藩に引き渡されました。あくまで大老は生きているを装うために、他の者の首として引き渡されたといいます。

3回に渡って、桜田門外の変の地を歩きました。勝手な想像ばかりが膨らみましたが、いかがでしたでしょうか。また、江戸の名残を求めていろいろなところを歩いて見たいと思います。

小説や映像で想像を膨らませるなら

やはり、浅田次郎氏の「柘榴坂の仇討」をおすすめします。武士の意地というのをとても感じることのできる作品です。ここでは映像(映画)をご紹介します(注:登場人物は架空の人物です。)。


内容紹介 浅田文学の最高峰、待望の完全映画化! 中井貴一×阿部寛が激突! 武士の矜持、妻への感謝と愛――日本人の真心がここにある! 「今、日本人としてどう生きるか」を見事に提示する作品が、ブルーレイ&DVDで発売! ひたむきに生きる。 ◎仕様◎ 【映像特典】 ・特報 ・予告編 ・TVスポット集 ◎内容◎ 安政七年(1860年)。 彦根藩士・志村金吾(中井貴一)は、時の大老・井伊直弼(中村吉右衛門)に仕えていたが、雪の降る桜田門外で水戸浪士たちに襲われ、眼の前で主君を失ってしまう。 両親は自害し、妻セツ(広末涼子)は酌婦に身をやつすも、金吾は切腹も許されず、仇を追い続ける。 時は移り、彦根藩も既に無い13年後の明治六年(1873年)、ついに金吾は最後の仇・佐橋十兵衛(阿部 寛)を探し出す。 しかし皮肉にもその日、新政府は「仇討禁止令」を布告していた。 「直吉」と名を変えた十兵衛が引く人力車は、金吾を乗せ柘榴坂に向かう。 そして運命の二人は13年の時を超え、ついに刀を交えるが…。 ◎キャスト◎ 中井貴一/阿部 寛/広末涼子/中村吉右衛門 髙嶋政宏/真飛 聖/吉田栄作/堂珍嘉邦/近江陽一郎/木﨑ゆりあ/藤 竜也

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