天正11年(1583)4月24日、羽柴秀吉の軍勢に囲まれた北ノ庄城で織田家筆頭の重臣として鬼柴田と恐れられた柴田勝家が、今は亡き主君織田信長の妹お市の方をはじめ、主従80人余りとともに壮絶な最期を遂げました。こちらの記事を書いているのは、平成30年4月22日(435年前の出来事です)です。間もなく命日ということで、今回は勝家自刃とその後の柴田氏について少し書いてみたいと思います。
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柴田勝家の最期
柴田勝家には、その生涯を通じてとても多くの逸話が遺されています。信長の家臣の中でも随一の武勇を誇っていた証だと思います。賤ヶ岳の戦いから北ノ庄城落城までにも多くの逸話が残されていますが、今回は北ノ庄落城にあたり秀吉が評した勝家の逸話をひとつご紹介します。
此役(この戦)、既に敗れ勝家黄昏に、漸く(ようやく)北庄の城に馳帰り籠城の手配せり。其明日(翌日)、秀吉城を十重二十重に押取り囲み、まず愛宕山に打登り、城中を見渡しければ、種々の紋書きたる旗馬標を、夥しく(おびただしく)押立て、静々と控えたり(たなびかせたていた)。秀吉之を見て感嘆して曰く(いわく)、城中を察するに、柳ヶ瀬の出陣に従はざりし老人、又は女童共の、物の用にも立ざる者共に、敗れ帰りし者共、相加はりたるにてぞあるらん。夫を魏々しく(威厳正しく)城を飾りし形勢流石に武勇を天下に顕はせる柴田程ありけるよと、繰返して之を称賛せり。
戦に敗れて城に帰った勝家が、既に戦える者もそれほどいない状況にかかわらず、たくさんの旗や馬印を整然とたなびかせている様に軍の統率という面で「さすが!」と感嘆したのでしょう。
勝家死に臨み、気象少しも平常に違ふことなく、夫々(それぞれ)功のある者を賞し、やがて腹搔き切てぞ死したりける。
こうして柴田氏は一族皆自害し滅亡し、淺井三姉妹のみは秀吉に保護されたということが普通私たちの理解するところだと思います。しかしながら、一族でもうひとり城を逃れることができた男子がいるのです。
勝家の孫柴田勝重
勝家には実子がなく、2人の養子柴田勝豊と柴田勝政がいました。2人はともに勝家の姉または妹の子で甥っ子にあたるのですが互いに反りが合わないところがあり、そこを秀吉は衝いて勝豊の離反の調略を成功させています。北ノ庄から脱出したのは、勝政の子の「柴田勝重」で母方の祖父日根野高吉に匿われ難を逃れました。落城の折には、勝家は孫の勝重に愛用の兜を与えられたといいます。
このとき勝重は3~4歳の童でした。三姉妹同様に道連れにするには忍びなく、勝家は城から逃がしたのでしょう。兜を授けたというところに柴田家の男子としての期待を感じます。父の勝政が勝家の姉の子ですから、勝家は姉の孫に強い愛情を持っていたことが想像できます。
勝重は、慶長4年(1599)に徳川家康に仕えて上野国に2000石を賜ります。翌年関ヶ原で初陣をかざり、大阪の陣での活躍を認められて武蔵国上仙川から中仙川(調布市仙川・三鷹市)を加増され3500石を領しました。仙川に築いた屋敷(島屋敷)のそばに、勝淵神社を建立し、その際に勝家に与えられた兜を水神の森に鎮め、「兜塚」として今に伝わっています。
柴田家は江戸期は旗本寄合席(大身の旗本)に名を連ね家名を守っています。大名家として滅びた後も、名家の名を惜しんだ幕府によって取り立てられた家がたくさんあります。以前紹介した、北条早雲の小田原攻めで一度滅びた大森氏も同様ですね(伊勢宗瑞の小田原城攻めと追われた大森氏のその後)。先祖の活躍が子孫の幸福につながっていることを知れば、戦乱を戦ったご先祖様も喜ばれるのではないかなぁと勝手に想像します。
勝淵神社の案内図
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