勝海舟といえば、咸臨丸による太平洋横断、坂本龍馬も活躍した神戸海軍操練所、西郷隆盛との江戸無血開城などがすぐ思い浮かべる方が多いかと思います。こうした事績のほかにも海舟は幕府の官僚として実に様々なことに関係しています。今回は、咸臨丸で太平洋横断する直前に、海舟が神奈川・横浜の防衛強化のために設計した「神奈川台場」をご紹介します。(2018年5月19日訪問)
神奈川宿の繁栄と開港
神奈川台場のほど近くには東海道の3番目の宿「神奈川宿」があります。江戸末期の神奈川宿の図をみるとその繁栄がうかがえます。
図の右上にある権現山の下に瀧ノ橋が見えます。瀧ノ橋を挟んで権現山側には青木本陣が、そして図の手前側には神奈川本陣が置かれていました。本陣は大名行列や、公家(勅使)が休息したり宿泊したりしてりする公認宿です。
図の左手の海は神奈川湊(港)で、安政5年(1858)には神奈川湊沖小柴に停泊していたポーハタン号の上で、日米修好通商条約が締結されています。この条約により神奈川(横浜も神奈川の一部として)は開港されることになりました。
わたしは、すぐに食べ物に関心が行ってしまうのですが、神奈川宿では「亀の甲煎餅」が名物だったそうです。
宮前商店街を少し進むと左手に「浦志満」という老舗らしい佇まいの菓子店がある。昔から神奈川宿の名物とされてきた「亀の甲せんべい」を今も販売している店だ。「亀の甲せんべい」は浦島伝説にあやかって亀の甲羅の形状にしたお菓子で、1717年(享保2年)に「若菜屋」が売り出したものだという。街道を行き交う旅人が買い求めたのはもちろん、参勤交代の諸大名の御用達にもなったものであるらしい。「若菜屋」は1989年(平成元年)に閉店、「浦志満」がその後を受けて「亀の甲せんべい」の味を引き継いでいるのだという。
味を引き継いでいた「浦志満」も2005年ごろに閉店されたとのこと。とても残念です。製法だけでもどこかに伝わっていると良いのですが…。
話を戻します。幕末の諸外国からの圧力、そして東海道と江戸沖の防衛強化のために、開港の翌年安政六年(1859)に幕府が伊予松山藩(秋山兄弟出身藩)に命じて建造させた海防砲台が「神奈川台場」です。砲台建造(海の埋め立て)のために、上図の権現山の土砂を大量に用いたことから、現在の権現山は図よりも大分低くなっています。
神奈川台場
神奈川台場建造にあたり、幕府の官僚として設計を行ったのが勝海舟です。幕府は、嘉永6年(1853)のペリー来航を期に翌年の再来航までに品川沖に砲台(お台場)を築いていました。それにより、ペリー艦隊は再来航時に、品川沖から横浜のあたりまで引き返しています。日米修好通商条約等の諸外国との締結を期に、更なる防衛強化の必要性から神奈川台場は築かれました。
神奈川台場の面積は2万6千余平方メートル(約4千坪)で約7万両の費用と1年の工期を要して、万永元年(1860)6月に竣工しました。海舟は設計をした後すぐに咸臨丸でアメリカに渡っています。工事を指揮したのは、平野弥十郎という土木請負人で、この方は中川翔子さんのご先祖様にあたります。NHKファミリーヒストリーでも平野弥十郎の功績は紹介されていましたのでご存知の方も多いかもしれません。
神奈川台場は明治32年まで諸外国の船への礼砲台として使用されていましたが、大正10年ごろにはかなり埋め立てられて今はほとんどその姿を残していませんが、砲台の跡を訪ねると数か所だけ当時を偲ぶ石垣が現存しています。
海舟は、「氷川清話」の中で、「西洋の弾丸を受けるために築くのだから西洋風であらねばならぬ」、「攻城砲、野戦砲、海岸砲などの区別を書物の上で研究して解するようになった」など台場築造の苦労譚を述べています。短い期間に、諸外国に対抗できるだけの防衛設備を設けるために努力した海舟や弥十郎などの先人の苦労を想いながらの訪問となりました。