前将軍徳川慶喜が上野寛永寺で謹慎し朝廷に対して恭順の意を示し、江戸城の無血開城があった後も寛永寺には旧幕臣らが「義を彰かにせん」として続々と参集していました。その数は最も多い時で5千を超えたといいます。
彼ら彰義隊士の立場になれば、武士たるものが一戦も交えずにただひたすらに命を惜しみ軍門に降るということが、武士道の面からも、彼らのプライドからも許せなかったのだと思います。治安が乱れた、「江戸が蹂躙れるのを座して見ていられようか、滅びるなら死に場所は江戸以外になし」という考えの者もいたでしょう。
今回は、150年前に彼らが意地とプライドをかけて戦い散った上野の地を歩いてみました。
腹が減っては戦は出来ぬ。
彰義隊士の多くが幕府の正規の軍隊ではなく、事実上の隊長の天野八郎さえも幕臣ではありませんでした(一部旧幕歩兵隊あり)。その彰義隊が数か月間上野の山で頑張っている際に兵糧はどうしていたのか、また誰が煮炊きをしていたのかは興味深いところです。米だけは官軍勝利の後に陣跡に残されたものを民衆に分け与えたという記録があり、ある程度確保されていたようですが、米だけというのも厳しいように思います。
江戸の市民は彰義隊に「江戸の意地を見せてくれ!」と好意的だったこともあり、様々な差し入れがあったのかもしれません。また、お山の玄関「黒門」を出るとそこは江戸でも指折りの歓楽街があり、広小路から不忍池周辺には料理店も数多く、彰義隊景気に賑わっていました。きっと戦が決まり籠城となるまでは、彰義隊士はそのあたりで腹を満たしていたのでしょう。
そんなことを思いながら上野の山を歩く前にちょうどお昼時になったこともあり、上野戦争の激戦の地であった広小路通りの不忍の池端にある享保年間創業のうなぎの名店「伊豆栄」にてランチをいただくことにしました。最近は名所を訪ねる際には歴食をセットにして満足度をあげています(笑)。
戦の前には彰義隊士も精をつけるために立ち寄ったかもしれませんし、江戸の町人として「お代は頂戴しません。江戸の意地を見せてくださいまし。」くらいな対応があったかもしれません。これらはすべては想像の話になります。
鰻割烹・日本料理 伊豆栄
不忍池前の伊豆栄(WEBはこちら)は、江戸時代享保年間(徳川吉宗の治世)に創業と伝わっています。浮世絵にも店名が確認できます。

浮世絵右端に「いづ栄」
江戸の蒲焼は、たれに砂糖を用いないことが特徴で、伊豆栄も昔ながらの調理法を受け継いでいます。今回は、お得なランチをいただきました。彰義隊士になった気持ちでいただきます。

ランチうな重(2700円)
ふっくらとしたうなぎを美味しくいただいて、すぐそばの上野公園内の激戦地跡へと向かいます。
黒門の激戦
勝海舟や山岡鉄舟らの解散に向けた説得、努力もかなわず、新政府軍による彰義隊の武力討伐が決定されました。
慶応4年5月15日(1868年7月4日)の朝(午前7時ごろ)の雨の降りしきる中、パチパチという小銃の打ち合いから戦は始まりました。大手口ともいえる黒門攻略を受け持ったのは薩摩兵でした。黒門には、鳥羽伏見の戦いも経験している旧幕軍の精鋭歩兵連隊が陣取っています。総攻撃の布陣を見て西郷は「薩摩兵を皆殺しにされるつもりか?」と陣立てをした大村益次郎に言ったそうです。大村は無表情で「ええ、そうです」と返したと伝わります。
しかしながら、戦で最も華やかな先陣は武士の名誉でもあり、かつ最強の軍を配置するのは定石のため、果たして西郷がそんなことを言うかな?という気もします。

中央下が黒門(大江戸今昔めぐりより)
彰義隊は黒門のわずか後方の山王社(今の西郷隆盛像がある小山)に、四斤山砲を据えて、薩摩軍を打ち下ろします。旧幕府歩兵連隊による銃撃や関宿藩(久世家5万8千石)万宇隊の砲撃に阻まれて突破できず、新採用のスナイドル銃の扱いにも難儀し、午前中は彰義隊善戦で推移します。

黒門の激戦(彰義隊奮戦之図)
現在黒門は、戦後彰義隊士の遺体を丁寧に葬った荒川区南千住の円通寺に移設されています。

現在の黒門(円通寺移築)
スナイドル銃のものと思われる弾痕が戦いの激しさを伝えています。京都御所の蛤御門の弾痕と比較して、深く穴が開いているように思います。わずか数年のうちでの銃の進化によるものと思われます。

黒門の弾痕
彰義隊の壊滅
彰義隊優勢ともいえる戦局が一変させたのは、正午過ぎに加賀藩上屋敷(現東京大学)から不忍池を越えて寛永寺内に打ち込まれた佐賀藩のアームストロング砲による砲撃によるものでした。
「肥前の妖怪」とも呼ばれていた佐賀藩前藩主鍋島閑叟は、「最新兵器は持っているということに価値があり、同胞を殺傷するべきものではない」という考えを持っていたとも言われ、実戦での使用を渋っていたという説もありますが、ついにこのときアームストロング砲は火を噴きました。彰義隊の砲は、飛距離で対抗できず、沈黙させられることになります。
それでも彰義隊は午後5時ごろまで戦い続けます。後に捕らえられた天野八郎が、黒門口を守ろうと旗本など40余名をつれて山王台へと駆け上がり「いざ一戦」と後ろを見たら誰もいなかった徳川氏の柔極まるを知ると語っていることから、「彰義隊は一日で壊滅し、情けない」というようなイメージがついている感があります。
それでも、上野を歩いてみて思ったのは、城でもなく要害でもない上野寛永寺で「よくぞ雨の中、朝の7時から夕方の5時まで戦い続けた」という思いでした。中世の山城跡のほうが余程要害であり、徳川霊廟守護や、輪王寺宮を旗印としたということもあったのでしょうが、ここは守り難いというのが感想です。
武士であればそれも十分理解していたことでしょう。それでも、「江戸で戦い江戸で散る」と死に場所を江戸に求めたという考えに立てば、彼らがここに踏みとどまった考えも理解できるような気がしました。

彰義隊士の墓
現在、上野公園の西郷隆盛像の後方に彰義隊の墓があります。戦死した彰義隊士が火葬された場所に、明治7年新政府の許可を得て旧彰義隊士が建立したものです。
もしも、江戸で一戦もせずにいたら…やはり旧幕府の旗本の意地を見せる場所はここしかなかったのではないでしょうか。幕府にも本当の武士がいたということを彰義隊は立派に示したと思うのです。そんなふうに思いながら、彰義隊士の墓に合掌しました。