大河ドラマ西郷どんでも江戸無血開城が描かれるのも近くなってきました。今回は、戊辰戦争150年、明治150年の平成最後の年に、幕末日本における重要人物のひとりである勝海舟が愛した地「赤坂」を幕末に思いを馳せながら歩いてきました(2018年9月訪問)。
瘦我慢の説
海舟と咸臨丸時代から馬が合わなかった福澤諭吉は、明治も中ごろになって「瘦我慢の説」を記し、海舟と榎本武揚の幕末および明治になってからの進退を「非」であったと論評します。
瘦せ我慢の説の概略は以下のとおりです。
幕府が落ち目で勝てる見込みがなく、それがわかっていたとしても、それはあたかも父母の病が重くて助かる見込みがないと同じようなもので、簡単に投げ出すようなものではない。
内乱による無益、味方の勝算がないと数理のように考えることをしたら、日本がいつか外国から攻められたときにも勝ち目がないといってすぐに時世を見計らって日本を解散する(投げ出す)ようなことが起こってしまう。その悪しき前例を海舟は行ってしまった。ここは、三河武士として「痩せ我慢」をしてでも、簡単に放り投げるようなことはしないべきであった。
しかも、明治以後に新政府の官職を得て、富貴を得ているのはいかがなものか。榎本にしても、五稜郭までは痩せ我慢ができていたが、明治に富貴を得て、死んでいったものたちへの情が足りない。痩せ我慢ができていない。
あくまでわたしの意訳なので、全文は、青空文庫「瘦我慢の説」を参照ください。
わたしは、これを読んで反対に大人物福澤諭吉が勝海舟よりも小さな人物のような印象を持ちました。海舟までが痩せ我慢をしなくて良かったと心から思うのです。痩せ我慢をするもの(たとえば彰義隊など)と海舟のように冷静に広い視野で日本国の未来を考えるものそれぞれ役割がそのときはあったのだと考えます。
海舟自身は、氷川清話で次のように語っています。
「批評は人の自由、行蔵は我に存す」
福澤は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違ふよ。つまり「徳川幕府あるを知つて日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし、唯百年の日本を憂ふる士は、まさにかくの如くならざるべからず」サ。(氷川清話)
幕末の勝海舟屋敷跡へ
海舟が咸臨丸で太平洋横断をしたころから、江戸城無血開城を終えるころまで(安政六年(1859)~明治元年(1868))最も活躍したころの約10年の間住まいがあったのが、港区赤坂6丁目10番39号の現在「ソフトタウン赤坂」という集合住宅が建つ場所です。
まったく当時の遺構などはありませんが、ここは、文久二年(1862)12月9日に運命の出会があった場所でもあります。それは、坂本龍馬との出会いです。当時幕府政事総裁職であった松平春嶽の紹介状を持って、幕府軍艦奉行並であった海舟を龍馬は訪ねてきたのです。氷川清話で海舟は龍馬のことを次のように語っています。
坂本龍馬。彼(あ)れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑つて受けたが、沈着いてな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だつたよ。(氷川清話)
開国論者の海舟を龍馬と龍馬の剣術の師千葉重太郎が斬りに来たのを、説得して弟子にしたというエピソードが、海舟の「追賛一話」にもありますが、これは海舟の記憶違いか、法螺話ではないかというのが今は有力なようです。海舟の日記によると重太郎の訪問が12月29日で、龍馬の訪問日とずれがあります。
いずれにしても、ここで勝海舟と坂本龍馬は出会い、龍馬は翌年3月には姉乙女あてに「今にてハ日本第一の人物勝燐太郎殿という人にでしになり…」と、また、5月には「此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先きゃくぶんのようなものになり申候 すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と書いています。海舟の弟子になったことの喜びが伝わってきます。余程海舟と龍馬は思想的に馬が合ったのでしょうね。
その場所に立っているということだけで、歴史ファンとしては感慨深いものがあります。
また、この屋敷には、彰義隊の上野戦争のときにも官軍に囲まれるという緊迫の事態もありました。
ちやうど彰義隊の戦争の日だつたが、官軍二百人ばかりで、おれの家を取り囲んで、武器などはいつさい奪ひ去つてしまつた。しかし、この時、おれが幸に他行して居たために、殺されることだけはまづ免れた。(氷川清話)
このときは、海舟の妹で佐久間象山の未亡人瑞枝が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救ったと言われています。
海舟の屋敷からすぐのところには、長門萩藩(長州藩)の下屋敷(現檜町公園)がありますし、さらに先には六本木ヒルズ長門長府藩の屋敷(現毛利庭園)もあるなど、このあたりは官軍の勢力が強いところだったのかもしれません。長州藩下屋敷跡の大名庭園は、今は都会のオアシスとして憩いの場となっています。
赤坂氷川神社へ
幕末の海舟屋敷跡から坂道を少し登ると、享保年間(1730年)に徳川吉宗が創建した「赤坂氷川神社」が鎮座しています。赤坂を愛した海舟もきっと何度も訪れたことでしょう。海舟も「氷川翁」「氷川の大法螺吹き」などと呼ばれ、回顧録「氷川清話」もこの氷川が由来です。
神社の境内には、樹齢500年ともいわれる大銀杏があります。この銀杏は氷川神社ができる前からこちらにありました。神社ができる前には、ここには備後国三次藩浅野家の下屋(浅野土佐守邸)がありました。赤穂事件の浅野内匠頭の正室阿久里(瑤泉院)が事件の後に実家であるこちらに幽居したのがこの地です。忠臣蔵で描かれる南部坂雪の別れ(忠臣蔵の物語のなかのお話)での舞台にもなっています。
この大銀杏、瑤泉院や大石内蔵助、徳川吉宗、勝海舟と多くの人物や物語を見つめて今もここにあります。海舟屋敷を訪ねる際には併せてのお立ち寄りがおすすめです。
明治以降の勝海舟邸跡へ
赤坂でもう一か所訪れておきたいのが、海舟が明治5年から亡くなるまで住んでいた屋敷の跡です。幕末の屋敷跡から数分のところにあります。氷川清話もここで書かれたものです。
福澤諭吉が送ってきて感想までを求めてきた「痩我慢の説」を書見したのもこの屋敷だと思われます。こちらにある海舟像と龍馬像はとてもリアルに作られていて、ファンとしては嬉しくなります。いっしょに記念写真を撮りたくなります。ただ幕末の屋敷跡(二人が出会った場所)にあればより良いのですが、贅沢は言えませんね…。
敷地の跡地は、海舟の没後に東京市へ寄付され、小学校を経て現在は港区立施設として活用されています。区立施設の1階には、海舟屋敷の発掘調査で出土した史料などの展示がされています。
このお茶碗は海舟が使っていものかな?などいろいろ想像してみるのがとても楽しいです。
赤坂を歩いていましたら、ちょうどお昼時になってきましたので、次回は海舟が愛したうなぎのお店を訪れてみたいと思います。