忠臣蔵の季節になると元禄時代、生類憐みの令、そして徳川綱吉のことを思い浮かべる方もいるかと思います。でも今回紹介する喜多見重政という大名のことまでご存知の方は少ないかもしれません。柳沢吉保と同様に将軍綱吉の側用人として重用されたのにもかかわらず、無念の最期を遂げた重政と喜多見氏のことをご紹介したいと思います。(2018年11月11日最終更新)
喜多見氏のこと
喜多見氏は、秩父氏の一族で、鎌倉幕府に御家人として仕えた武蔵の国の国人領主でした。のちの江戸城周辺を領したことから江戸氏を称しました。室町時代に、太田道灌が江戸の地に進出すると木田見(現世田谷区喜多見)に移ったとも、支流が名跡を継いだともいわれています。
戦国時代になると、江戸(喜多見)勝重が古河公方、奥州吉良氏(世田谷御所)、後北条氏と主を変えながら家を保とうとします。勝重は、小田原城にも籠城し、開城後は芝増上寺の観智国師の推挙により徳川家の御家人に取り立てられ、喜多見の所領500石を安堵されました。
大坂の陣でも活躍した勝重は、豊臣家滅亡から間もない元和三年(1617)から堺奉行、のちには河内和泉の国奉行を兼ねて戦乱で荒れた畿内の復興に努めます。相当優秀な官僚であったようで、その功績は現代まで伝わっています。
喜多見流茶道
勝重は、武人、官僚としてのほかに、文化人としても知られています。古田織部や沢庵和尚、小堀遠州とも親交を深くしました。これが、その子(三男)の久大夫重勝による喜多見流茶道の礎となりました。
久大夫重勝は佐久間将監から宋可流をそして父と親交の深い小堀遠州から遠州流の茶道を会得し、喜多見流茶道として一派を成すほどに至ります。久大夫重勝の茶室があったと伝わる世田谷区成城には、お茶屋坂という坂があり、喜多見流の跡を僅かに残しています。
久大夫重勝の娘(次女)と旗本石谷武清との間にもうけた彦五郎が喜多見本家の養子となり、のちに将軍綱吉に重用され二万石の大名となる喜多見若狭守重政です。
喜多見氷川神社には、喜多見重恒・重勝兄弟が承応三年(1654)に氏神であった喜多見氷川神社に奉納した石鳥居があります。
喜多見重政の栄枯盛衰
重政は、綱吉が将軍職に就くとその寵愛を受け天和三年(1683)には1万石の譜代大名に、貞享二年(1685)には側用人となり、翌年にはさらに1万石の加増を受けて2万石の大名となります。同じ時代を生きた知識人からも「忠実至誠の武士」として称賛される人柄で、かつ茶道にも通じているというところが綱吉好みであったのかもしれません。
この綱吉好みというのがどのようなことかが気になるところです。綱吉には、男色があったそうで役者など多くの人に手をつけたと伝わっています。喜多見に陣屋を設ける際にも、綱吉からその費用を下賜されたともいいます。
綱吉が生類憐みの令の政策が始まると、重政は犬大支配役を仰せ付かり、喜多見陣屋の敷地内に幕府の御犬屋敷の建設に着手したと伝わります。喜多見の御犬屋敷は主に病気の犬を収容する施設で、四谷等の大規模犬屋敷のように野良犬を収容するのとは位置付けが異なっていたそうです。
そんなさなか、事件が起こります。元禄二年(1689)1月3日、重政の従兄弟の旗本・喜多見重治の屋敷にて重治と重治の妹婿朝岡直国が喧嘩となり重治が直国を殺害し、重治もその罪で斬首されるという事件でした。武士が斬首ということですから、重治に相当な罪があったようにも想像できます。男女関係のもつれともいいますがよくはわかりません。
この事件から1か月後の元禄二年2月2日、喜多見重政は突然改易となります。一族の罪に連座したと考えるのが普通かもしれませんが、表面上は「将軍の意向に背き、勤務を懈怠している」というの理由での改易でした。あれほど重用していた重政の突然の改易は世間を驚かせ、また様々な憶測を生むことになります。
綱吉はその治世に46家の大名を改易もしくは減封し、1297名の旗本・御家人を処罰しているそうです。近年は、かつての生類の憐みの令の悪法のイメージから、主に儒教に基づく天和の治を行った善政の部分からの評価の見直し・再検討がされている綱吉ですが、好き嫌いが激しく、自分の思い通りになるかどうかで大名や家臣を軽く処分していた将軍ということだけは事実であるように思います(あくまでわたしの私見です)。
こちらは、上野寛永寺の重要文化財徳川綱吉霊廟勅額門です。果たして本当の綱吉はどんな人なのでしょうか…。
その後の喜多見氏
重政は改易後に、桑名藩松平家に預けられ、改易から4年後の元禄六年(1693)に桑名で餓死しました。おそらくは、綱吉への身をもっての抗議だったのではないでしょうか。
こうして鎌倉以来の名門江戸氏の名跡を継ぐ喜多見氏は大名としては滅亡しましたが、重政の嫡男北見忠政は後に松前藩に仕えており、松前藩で北見氏は子々孫々重く用いられていきます。重政もこれを知れば少し安心するのではないかと思います…
喜多見氏の残景
慶元寺
東京都世田谷区喜多見には、喜多見氏ゆかりの寺社があります。慶元寺は、江戸太郎重長が今の皇居紅葉山辺りに開基した江戸氏の氏寺で、江戸氏が木田見に移った時にともにこの地に移ったそうです。
慶元寺には、江戸氏と喜多見氏の墓があります。
慶元寺の本堂は、喜多見氏滅亡後の享保元年(1716)に再建されたものです。大檀家の喜多見氏の滅亡後間もない時期にこれほどの本堂を再建できたのはなぜなのか興味がわきます。こちらの慶元寺参道前にあたりに喜多見氏の喜多見陣屋があったと推定されていますが、その遺構はほとんどなく、詳しいことはわかっていないようです。
喜多見氷川神社
氷川神社は、天平12年(740)の創建で、永禄13年(1570)にこの地の領主江戸刑部頼忠により再興されました。その子孫喜多見勝忠らにより寺領や石鳥居を寄進されるなど、喜多見氏と縁の深い神社です。とても清らかな空気に包まれていました。
稲荷塚古墳
慶元寺近くにある古墳時代末期の族長のものとされる古墳です。この地の言い伝えでは、この古墳を稲荷塚でなく「犬つなぎ古墳」と呼んでいたとのことで、喜多見氏と生類憐みの令の犬大支配役との関連がもしかしたらあるのかもしれません。喜多見にはこのほかにも「野屋敷」という地名もあり、犬の屋敷があった場所とも言い伝わっています。
今回は、今の東京23区内に唯一の陣屋を持っていたという大名喜多見氏のことを、その残影の残る場所を巡りながら調べてみました。まったく知らなかったことをまた多く学ぶことができました。まだ自分の知っていることは本当に少しなんだと実感します。歴史は本当に深いし、広いし、楽しいなと改めて思いました。