江戸時代が終わってから今年(2018)は150年になります。今年は特に江戸の面影を探しながら大名屋敷跡など訪れる歴史散歩をすることが多いのですが、150年の間には関東大震災、東京大空襲の大火等もありその多くは失われています。
大名屋敷の御殿が残っているというのは本当に稀(豪徳寺の佐倉藩御殿など)で、石垣や庭園が残っているのみでもとても嬉しくなるのですが、武骨な大名屋敷門にもとても惹かれるものがあります。
今回は、上野の東京国立博物館の門として現在も利用されている重要文化財「旧因州池田屋敷表門(黒門)」について様々調べてみました。(2018年11月17日最終更新)
因州池田家のこと
池田家については、以前の記事「大大名の国替え話に異変アリ!池田氏の場合」で触れていますので参照いただけます幸いです。
池田氏は江戸時代には大きくは2家(岡山藩光政系、鳥取藩光仲系)がありました。因州は因幡国のことなので、因州池田家は因幡伯耆の2国を治め、鳥取城に藩庁を置いた鳥取藩32万5千石の池田家ということになります。
因州池田屋敷はどこにあった?
黒門は、上野に今あるのだから、上野にあったとかというとそうではなく、移築により現在の場所にあります。大名屋敷の表門は移築されていることが多く、移築されていたから戦災を逃れることができているということもあります。
この黒門は、大名小路に面した池田家の上屋敷の門であったそうので、さっそく江戸の古地図と現代の地図を重ねて表示できるアプリ「大江戸今昔めぐり」で場所を確認してみることにしましょう。
ありました!江戸城馬場先門近くに因州鳥取藩「松平(池田)相模守慶徳」とあります。このあたりは御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれ、親藩や譜代大名の藩邸(24家)が連なっていたため「大名小路」とも呼ばれていました。
大名小路という表記と重なって、丸の内三丁目とあります。おそらくは、元々この位置に「因州池田屋敷表門」はあったものと思われます。
2度の移築
黒門は、形式と手法から幕末に造られたものと考えられています。江戸幕府の崩壊後、幕府の拝領地に建てられていた大名屋敷は明治政府により収公されていき、池田家屋敷のあるあたりも陸軍の兵舎や練兵場などになっていたようです。そして、明治23年には現在の丸の内周辺は三菱財閥に払い下げられ、この地は三菱により開発されていきます。そのため、現在も丸の内には三菱系のビルオフィスが多いのだそうです。
三菱に払い下げのあったころは、まだ黒門が造られてから年月が浅く、立派な門であったこともあってか、明治25年に高輪の常宮御殿に移築されることになります。常宮(恒久王妃昌子内親王)は明治天皇の第六皇女で、のちに竹田宮恒久王に嫁ぐことになります。恒久王と常宮の曾孫が竹田恒泰氏です。
この常宮御殿は、旧肥後熊本藩細川家下屋敷の一部に建てられていました。肥後熊本藩細川家下屋敷と高輪ということでピンときた方もいるかもしれませんが、細川藩邸は、赤穂事件で大石内蔵助以下17名が預けられ、切腹をした場所でもあります。
大江戸今昔めぐりで確認しますと、ちょうど青点のあるところに、「大石良雄外十六人忠烈の碑」があり、現在も訪れる人が後を絶ちません。近くには浅野内匠頭と赤穂義士の墓所泉岳寺があります。
忠烈の碑の門の内側には、庭石のような巨石がありました。藩邸時代からの庭園跡かもしれません。
また、細川家下屋敷のころからこの地にある「しいの木」の巨木が今も青々と葉を茂らしてました。
少し話が逸れましたが、常宮御殿は、大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期「東宮御所」としてお使いになり、昭和には高松宮邸となりました。高松宮邸は、現在は高輪皇族邸となり、天皇陛下が退位後は仙洞御所の御假寓となる予定です。
因州池田屋敷表門は、池田家~常宮~迪宮裕仁親王(昭和天皇)~高松宮と主を変え、昭和29年3月に現在の地上野の東京国立博物館に移築されました。
旧因州池田屋敷表門
前置きが長くなりました。こちらからは旧因州池田屋敷表門をじっくりと…
この武骨な力強さ、大藩の威容を現代にも伝えています。屋根は入母屋造(いりもやづくり)で格式の高い門構えです。
門の左右には、向唐破風造の番所があります。
こちらの黒門は、現在も使われています。大名や皇族も利用した門をくぐることができるのです。東京国立博物館のWebよると土・日・祝・休日および1月2日・3日の10:00~16:00に開放しているそうです。(注)天候により中止されることもあります。実は私はまだくぐったことがないので、いつかくぐり抜けてみたいと思います。。
150年以上の時を経て、武家、大名の文化を現代の私たちに伝えてくれている黒門。これからも末永く大切に未来に引き継いでいきたいですね。