日本史は、日々の研究や発掘の成果により更新されています。それでも、いつどんな発見があったのかは、あまりに多くの発見があるために忘れてしまいがちです。ここでは、2019年の奈良時代の新発見を月ごとに記録してまいります。今年も驚くような新発見に出会えますように…。(2019年12月28日最終更新)
1月
天武天皇の娘「初代斎王」宮殿か、建物跡を発見 2019年1月5日 読売新聞
古代から中世にかけて、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた「斎王(さいおう)」の宮殿があった三重県明和町の国史跡・斎宮(さいくう)跡で、飛鳥時代後半(7世紀後半~8世紀初頭)の斎宮の中心施設である、方形区画と多数の建物跡が見つかった。天武天皇の娘で初代斎王とされる、大来皇女(おおくのひめみこ)の就任に伴い造営されたとみられる。中央集権国家の樹立を目指す天武天皇のもと、伊勢神宮祭祀(さいし)が整えられたことを物語る貴重な発見だ。
恭仁宮大極殿院の正面に簡素な塀跡 経費削減か工期短縮か 2019年1月16日 京都新聞
奈良時代に現在の木津川市加茂町で造営された恭仁宮について、京都府教育委員会が16日、発掘調査の結果から、天皇が重要な儀礼を行った大極殿院の正面(南面)が簡素な塀だったとみられると発表した。大極殿院の東西と北面は平城宮(現在の奈良市)から移築された格式高い築地回廊が用いられているが、南面だけが例のない特異構造で、経費を削減したか工期に合わせた可能性があるという。
四天王像から「行基」銘文、奈良 2019年1月29日 産経新聞
奈良大(奈良市)は28日、額安(かくあん)寺(奈良県大和郡山市)伝来の木造四天王像のうち2体から「行基大菩薩(ぼさつ)御作菅原寺」などと記された墨書銘文が見つかったと発表した。四天王像は奈良時代の僧、行基が最期を迎えた菅原寺(喜光寺、奈良市)から移されたとする伝承があり、同大は「説が裏付けられた」としている。
出典: www.sankei.com
2月
新名神建設現場で建物跡群出土 京都、美濃山廃寺の工人集落か 2019年2月7日 京都新聞
京都府埋蔵文化財調査研究センターは6日、八幡市美濃山出島の美濃山遺跡の発掘調査で、飛鳥時代から奈良時代にかけての建物跡群を確認したと発表した。木炭を作った窯跡や鍛冶作業で出る鉄片などが出土したことから、近くの古代寺院「美濃山廃寺」の造営に携わった工人の集落ではないかという。
「尼坊」は45メートル大施設 古代寺院「上野国分尼寺」発掘調査 2019年2月27日 東京新聞
高崎市教育委員会は二十五日、発掘調査中の古代寺院「上野国分尼寺(こうずけこくぶんにじ)」跡(高崎市東国分町)で、尼の宿舎「尼坊」跡の全体規模を確定したと発表した。建物は、柱の間の数が東西で十五間(計四十五メートル)になる大規模施設で、市教委は「この地域に財力があったことがうかがえる」としている。近くにある国史跡「上野国分寺跡」の失われた「僧坊」を復元する上でも参考になるという。 (石井宏昌)
奈良時代の木簡、土器発見 3日に現地説明会 浜松・梶子遺跡 2019年2月28日 静岡新聞
浜松市は27日、中区西伊場町の梶子遺跡から、奈良時代の木簡や土器が発見されたと発表した。木簡には文字が記され、古代の役所で使われた文書箱のふたとみられる。当時の行政機関や役人の仕事ぶりに思いをはせられる貴重な史料という。
出典: www.at-s.com
3月
奈良時代の長岡京跡から貴族邸宅 寝殿造りに似た配置 2019年3月1日 共同通信
桓武天皇が造営した奈良時代末の都・長岡京(784~794年、京都市伏見区など)跡から、3棟の掘っ立て柱建物跡が見つかり、発掘会社京都平安文化財が28日に発表した。奈良時代は正殿が最北にあり、それより南側に脇殿が並ぶ建物配置が一般的だったが、今回の建物は脇殿が正殿より北側に置かれており、平安京跡(京都市)で見つかった平安前期の邸宅跡と似ているという。この邸宅跡は寝殿造りの原型とも考えられている。
出典: this.kiji.is
「羅城門」南西で新たに道路跡 京の玄関口と一体整備か 平城京 2019年3月15日 産経新聞
奈良県大和郡山市の平城京南方遺跡・右京域(西部分)で、京を碁盤目状に整備した都市区画「条坊」と同規格の道路跡が新たに見つかり、市教委が発表した。調査地は、京の南端とされる九条大路にあった正門「羅城門」跡付近(同市野垣内町)。道路を拡幅した跡があったことから、羅城門やそこから延びる城壁「羅城」と一体的に再整備された可能性が高いという。
出典: www.sankei.com
平城京跡に舟入遺構 – 東堀河の荷揚げ場か 古代の都城跡で初/奈良市埋文センター 2019年3月19日 奈良新聞
奈良市大安寺2丁目の平城京跡で、運河の「東堀河」を行き交った船の荷揚げ場「舟入(ふないり)」とみられる奈良時代の遺構が、奈良市教育委員会埋蔵文化財調査センターの調査で見つかった。古代の都城跡で同様の施設が確認されるのは初めて。出土遺物は、同市大安寺西2丁目の同センターで開催中の平成30年度春季発掘速報展で展示されている。29日まで。
5月
側面に由来など記す墨書 – 寺の各所から集約 文献資料も裏付け/正倉院伝来の容器「唐櫃」2019年5月19日 奈良新聞
正倉院(奈良市雑司町)の宝物が納められていた大型の木製容器「唐櫃(からびつ)」に、宝物の由来や点検の状況などを記した墨書が残されていることが、宮内庁正倉院事務所の調査で分かった。東大寺の堂塔や倉庫から正倉院へ移された唐櫃もあることが判明。宝物が寺の各所から集められたことを記した文献史料を裏付ける成果という。
平城天皇退位後の住まいの塀跡か 2019年5月31日 NHK
奈良市の平城宮跡で平安時代の天皇、平城天皇が退位したあと、移り住んだ住まいを囲んでいた外側の塀の跡が新たに見つかりました
7月
奈良の「吉野宮」に後殿などの跡 古代天皇の離宮、内裏を再現か 2019年7月19日 共同通信
飛鳥・奈良時代に天皇が盛んに訪れた離宮「吉野宮」と考えられる奈良県吉野町の宮滝遺跡で、中心の大型建物跡を囲む建物群跡が確認されたと、県立橿原考古学研究所と吉野町が19日発表した。天皇の住まいである内裏を再現したとみられ、謎に包まれた吉野宮の全容を解明する手掛かりになりそうだ。
出典: this.kiji.is
奈良・平城京跡の邸宅 有力貴族の屋敷か 敷地6万1000平方メートル 2019年7月19日 毎日新聞
平城京左京に当たる奈良市法華寺町の市立一条高校の敷地にあった奈良時代の貴族の屋敷が、4町分(約6万1000平方メートル)の広大なものだったことが分かった。同市教委が19日発表した。左大臣・長屋王の屋敷と同規模で、場所は藤原不比等邸宅の約150メートル東の一等地。所有者の特定につながる木簡などは見つかっていないが、相当に有力な貴族の屋敷だったとみられる。
出典: mainichi.jp
12月
奈良西安寺、法隆寺と同じ瓦出土 両寺の深い関連性注目 2019年12月6日 共同通信
聖徳太子が創建した世界遺産・法隆寺(奈良県斑鳩町)と同じ木型で作られた瓦が、約3キロ南西にある同県王寺町の西安寺跡で見つかったと6日、王寺町が発表した。西安寺も聖徳太子が創建したという伝承があり、担当者は「同じ瓦が見つかったことで両寺の深い関係性がうかがえる」としている。
出典: this.kiji.is
新発見は随時更新してまいります。